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ほとけさまのこころ

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あれだけ暑かった季節も終わり、あっという間の秋が過ぎ今日からいよいよ12月ですね、本格的な寒さがやってきました。この季節になると、マフラーや手袋が恋しくなりますsnow

「人間て本当にいいものかしら・・・」こんな言葉で締めくくられる狐の親子のお話、『手袋をかいに』という絵本があります。こんなお話です。

とある雪の降り積もった日・・・・

「お母さん、お手てが冷たくて痛いよ~」

「あらあら、可愛そうに・・手に霜焼けができてるわね~、夜になったら町まで降りてぼうやにぴったりの手袋を買いにいきましょうね~」

しかし、夜一緒に街の側まで降りてきた狐親子ですが、お母さんは昔町で人間に捕まりそうになり命からがら逃げ出してきたことを思い出して怖くなってしまい、どうしてもお母さんの足が前にすすみません。

しかたないので、お母さんは子狐を一人で街に送り出すことにしました。

「坊や片方おててをお出し」お母さんが手を握ると子狐の片方の手は人間の手へと変化しました。

「変なの、これは何?」

「それは人間の手よ、いいかい坊や、町へ行ったら人間の家がたくさんあるからね、帽子屋さんを探すんだよ。そして、トントンと戸を叩いて、今晩はって言うんだよ。そうするとね、中から人間が少し戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うんだよ、わかったね、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」

「どうして?」

「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、捕まえておりの中へ入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ」と言って母さんの狐は持って来た二つの銀貨を、人間の手の方へ握らせてやりました。

「うん、わかったよ!!じゃあいってくるね~」

子狐は教えられた通り、看板の家を見つけトントンと戸を叩きました。

「今晩は」

 すると、戸が一寸ほどゴロリとあいて、光の帯が道の白い雪の上に長く伸びました。

 「まぶしい!!」

子狐はめんくらって、まちがった方の手を、――お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手を隙間からさしこんでしまいました。

「このお手々にちょうどいい手袋下さい」

「おやおや、これはこれは・・・。狐の手が手袋をくれだなんて、きっと木の葉で買いにきたんだな・・・よし、先にお金を下さい」

「はい、どうぞ」

「あれ・・これは・・・木の葉じゃない、ほんとのお金だな・・。ちょっと待っててくださいな。」

「はい、どうぞ」

子狐は、「ありがとう」と、お礼を言ってまた、もと来た道を帰り始めました。

「お母さんは、人間は恐ろしいものだって言ってたけどちっとも恐ろしくないや。だって僕の手を見てもどうもしなかったもの、いったい人間てどんなものだろう・・」

子狐は途中通りがかった家の中、人間の子どもが自分と同じようにお母さんに甘えているのを見て、急にお母さんが恋しくなって急いでお母さんの元へ帰ります。そして物語は母子の会話で幕を閉じます。

「お母さん、人間て・・・ちっとも怖くないや」

「どうして」

「僕、違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」

まぁ、とあきれながら、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。

この『手袋をかいに』の作者は児童文学者の新美南吉という人です。彼は29歳の時に若くして亡くなってしまいました。南吉は、短い生涯の中人を信じては裏切られ、激動の人生を過ごしています。母狐の最後の言葉は南吉の呟きだったのではないかと言われています。

日々のニュースを見ると目を覆いたくなるような事件ばかりが後を耐えません。

「人間てほんとうにいいものかしら・・・」誰もがこのようにつぶやくことはあるでしょう。しかし、絵本の中でも、結果として子狐は手袋を買うことができました。南吉は信じていたのでしょう、どんな時代でも、「人間はいいものだ。人間はいいものだ」と。

人間の持つ善の面、必ず仏になれるという、「仏性」をひたすら信じ尊重した生き方の見本として法華経の中に『常不経菩薩』という菩薩さまが出てきます。

この菩薩さまは「私はあなたたちを敬い、決して軽んじません。なぜならあなたたちは未来に仏となられるからです」と、どんなに馬鹿にされても道で出会った人々の仏性を信じてひたすらに礼拝され、やがて後の世にお釈迦さまとなって生まれて仏となられました。

人を礼拝し続けるというのは一見簡単そうに見えてある意味ではとても難しい修行です。なぜなら悪人も善人も怠ける人も努力家も皆から好かれる人も、皆から嫌われる人も、すべての人を肯定しなければならないからです。どんなに裏切られても心の底から人を信じなくてはならないからです。

 「理想論」、と言ってしまえばそれまでですが、他人の悪い面ばかりを見ていても何も解決はしないし、人間関係はすすみません。行き詰った時はどんな人でも必ず持っている「仏性」、ほとけさまの心に目を向けてみること、このことも大切なのではないでしょうか?

熊本 本妙寺 寺フェス 四十九日体験ツアー ナビゲート 

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本妙寺 寺フェス 49日体験ツアー ナビゲート

私達は普段、いつかはこの命が終わってしまう事について真剣に向き合う機会はなかなかありません。老いたら老人施設、病気になったら入院、そして死を迎える時は病院。死は禁忌化されてどんどん「死」が遠くなっているのが現状です。

棺桶の中、入ってみると、お経が聞こえたり、色んな人の声がちゃんと聞こえています。人は死んだら、棺桶に入ったら終わり、決してそうではありません。きちんと、亡くなった方に感謝や供養が必要なのです。

死ぬ前に棺桶に入ったり、死後について考えをめぐらすことはなかなかできる機会はありません。自分の終わりをみつめてこそ、よりよい生き方がみつけることができるのではないでしょうか?この企画がきっかけとなり、皆様がかけがえのない一日一日の命を大切にしっかりと過ごされることを少しでも感じていただければ幸いです。happy01

熊本 本妙寺 寺フェス!! 四十九日体験ツアー

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「悪い事をすりゃ地獄に堕ちる・・・。たったそれだけの事を忘れた途端、人の世界は腐っちまった」

 

昔見たアニメの中で人間を何百年という長い間見つめてきた妖怪が言った台詞です。お寺に入ってはや五年になりますが、今しみじみと、なるほどなぁ。と感じることができます。

 

先日、21日熊本 本妙寺にて、日蓮宗青年会による「寺フェス」が行われました。メディアでも様々なところで取り上げていただきました、本妙寺とその参道、塔頭と呼ばれる参道沿いの11の寺院で一般の方々のご協力を仰ぎながらお坊さんならではのアイデアで、楽しみながら、お寺に触れていただけるような企画を熊本県内の地域ごとにグループに分かれて行いました。私は荒尾、長洲組に属しておりましたので、塔頭の静明院さまで四十九日体験ツアーという企画に携わらさせていただきました。

 

「人は生命がおわるとどうなるのか?長い旅に出るのです。」

 

この企画は人が亡くなって、あちらの世界にいくまでの四十九日の間には、なにがあるのか?知っていただくための企画です。まず、最初に納骨堂のお釈迦さまの前でお経を読み、その間据え置いた棺桶に入っていただき、そこから出発していただきます、今生での罪を裁かれるために七日ごとに裁判を受け、その裁判で弁護していただくための仏さま、菩薩さま、明王を七・七日まで探し、最後にたどりついた浄土の世界で達成証明書と、疲れを癒すために境内でやっていた成仏マッサージの割引券をお配りしましたhappy01

 

四十九日という意味合いはなんとなく知っておられても、何故七日ごとにお経をあげるのか?何故お葬式と言う儀式が必要なのか?知っていただく良い機会になったと思います。

 

さて、参加された方々から、七日ごとの達成の時のナビゲートの文章がまとめてゆっくり見たいと言われる方が多数いらっしゃいましたので、そのままupさせていただきます 🙂 。

 

 

 

秋のお彼岸の期間が始まります!!

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台風もすぎ、すっかり涼しくなってきました。今年も気がつくと9月の中旬になり、19日から、秋分の日22日を中日として25日までの一週間「お彼岸」の期間がやってまいりました。「お彼岸」の期間は亡くなった方々、ご先祖様達がいらっしゃる世界「彼岸」と私たちがいる世界「此岸」が一番近づく期間です。これは日本独特の仏教行事で、聖徳太子の頃に始まったと伝えられ、江戸時代には年中行事として定着したそうです。

「お彼岸」には先祖をしのび、自分が今生かされていることに感謝し、亡き人を想いながら、供養の法要や、墓参りをするとともに、自らもいずれ彼岸に渡ることができるように精進しなくてはいけません。

 どのように精進すればよいかと言いますと、「六波羅蜜」という修行方法があるんです。ざっとあげますと①布施波羅蜜②持戒波羅蜜③忍辱(にんにく)波羅蜜④精進波羅蜜⑤禅定(ぜんじょう)波羅蜜⑥智慧波羅蜜の六つです。言葉だけ見るとなんだかとても難しいですね。まず、「波羅蜜」とは私たちのいる世界である【此岸】からご先祖様達がおられる悟りの世界である【彼岸】へと渡る、という意味です。なので波羅蜜の前についている布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つが修行方法です。

 布施とはどのような修行か?簡単に言いますと、誰かにものをあげることです。しかし、人に何かをしてあげるとき、人間の心には「他人にどう思われるか?」や「打算」が時に生まれる時があります。これが生まれてしまうと本当の「布施」にはならないんです。布施とはいかにして、他人のために何かをする時に自分の心の中の駆け引きやこだわりを捨てれるか?これが大切です。

持戒とは、戒律(きまり)をもって暮らすことです。仏教では五戒といいます、五つの戒があります。①殺生をするな②盗みをするな③邪淫におぼれるな④嘘をつくな⑤酒を飲むなの五つです。

忍辱とは、字の如く、耐え忍ぶこと。何から耐え忍ぶのかと言いますと、私たちは生きて生活している以上は必ず他人に迷惑をかけて生きているものです。「お互い様である」という心で他人の迷惑も少しは耐え忍んでいきましょう。ということです。

精進とは、努力とか励むとかいう言葉とよく似ています。しかし、ただひたすらに、がむしゃらに頑張ることは本当の精進とは言いません。物事に対しての執着心を捨てて、あたりまえのことをあたりまえに、先を見据えてゆっくりと着実に努力を重ねることが精進です。

禅定とは、座禅という修行がありますが、座禅をするときは集中して精神統一を行います。それと同じように、仕事をするときは仕事に、遊ぶときは遊びに、掃除をするときは掃除に、何事も片手間に何かをするのではなく、何かをする時は坐禅の修行をしているようにその一つに集中して行いなさいということです。

以上の五つの修行を実践しようとすると、今まで自分に気がつけなかったことに目覚めて自分の生活が次第に変化していきます。この際に得られるのが智慧です。一般的に言う「知恵袋」などの知恵は人が生きていきための学問、経験や本で学んだこと、人から聞いたこと、役に立つ知識を意味しますが、『智慧』とは仏さまの心を意味します。自分の知恵を捨てて、視点を変えて仏さまの心で物事を見ることが智慧です。

 パッと見ると、わかってはいるんだけれどもなかなか難しいですよね。しかし、このお彼岸の期間、一週間心がけるだけでも仏様の「智慧」が得られて豊かな生活が送れるかもしれませんよ。是非実践されてみてくださいgood。まぁ、でも一番簡単でよいのはお寺の法要に参加して一緒にお参りされることですねhappy01!!ご先祖様の供養にもなるし、一緒にお参りしたり、法話も聞けて、仏道修行にもなりますねsmile!!難しいことはありません、是非お寺で一緒にお彼岸の供養をいたしましょう。

        *参考文献 主婦と生活社出版 「仏教早わかり百科」

お盆

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夏の暑さもピークを迎えようとしています、ちょうど昨日よりお盆の期間に入りました。お盆は熊本のこの地域では8月13日から16日の間、ご先祖さま、亡くなった方々が帰ってこられる期間に提灯を出し、お供え物をし、我が家に霊を招いて供養をする期間です。提灯を出すのは、ご先祖さまが帰ってくるための目印ですね。

当山でも、墓地へお墓参りをされる方々が毎日たくさんいらっしゃっております。住職と私も地区ごとにお盆の回向周りに檀信徒の皆様のご家庭を伺っております。

さて、ご回向の時に日蓮大聖人のお手紙「盂蘭盆御書(うらぼんごしょ)」というお手紙を拝読するのですが、そのお手紙をちょっと紹介します。このお手紙の中に出てくる目蓮尊者と言う方はお釈迦様の十大弟子のお一人で、お盆の起源はこの目蓮尊者が餓鬼道に堕ちた母を救おうとした故事に由来します。

 「悪の中の大悪は我が身にその苦をうくるのみならず、子と孫と末へ七代までもかゝり候ひけるなり。善の中の大善もまたまたかくのごとし。目連尊者が法華経を信しまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。」

 悪の中の大悪というものは、我が身にその苦の報いを受けるだけではなく、子から孫へと七代も続いて受けてしまうことになる。この反対に善の中の大善もまた同様である。目連尊者が法華経を信じることによって積んだ大善の功徳は、我が身を成仏させただけではなく、父と母をも仏に成すことができたのである。そればかりか上は七代の祖先、下は七代の子孫、さらには無量の父母祖先、子孫がすべて予期せずに成仏できたのである。

 ついつい、私達がいるこの世界と亡くなった方々がいらっしゃる世界、切り離して考えがちですが、実はそうではないのです、こちらで善き功徳を積めばそれは向こうの世界にいらっしゃる亡くなった方やご先祖様たちの功徳にも繋がる。そして自分の子孫にも繋がっていくんですね。

 お盆の時期はそんな命の繋がりを感じ取ることができる機会です、どうぞ、ご先祖様たちと繋がって今ある命の尊さに感謝してお参りされてください。

 8月16日 11:00から 当山 妙國寺におきまして、皆様のご先祖さまを供養します。お盆施餓鬼供養法要を執り行います。どうぞご家族そろってお参りください。

不思議な野菜・・・

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6月くらいにじゃがいもを収穫した家庭菜園ですが・・・。

大成功だったので、「これはいけるぞ」と調子にのってしまい、そのあとすぐに、枝豆や、トマトや、キャベツ、とうもろこし、すいか、大葉など様々な野菜を植えてみました・・・。

しかし、キャベツは大量の虫さんたちに食いつくされ、トマトにも茎を覆い尽くすほどの大量の虫がつき、枝豆はうまく育たず、トウモロコシは4本植えていて徐々に育って楽しみにしていたのに、気がつくと・・・・・・・、茎が倒され、実は何かの動物に食べられてしまっていました・・・・。

じゃがいもがうまくいったので、いけると思ってのですが・・・

昔、『「米」という漢字は八十八と書くでしょ?だから米を作るには八十八の苦労がつまっているのですよ』と言われたことを思い出しました。

そんな中、雨が続いてしばらく菜園を見にいけない日々が続き、ふと気付くと奇妙な実がなっているのに気がつきました。

あれ、瓜なんて植えたっけ?そもそも黄色い瓜ってあるのか?いつ収穫すればよいのだろう・・・。

とずっと気になっていたんですが、色々な方に聞いてみると、実はこれ、

「きゅうり」だそうです。確かに、そういえばきゅうりの苗も買っていた記憶がよみがえってきました。きゅうりが熟すとこのように黄色に大きくなるそうです。

緑の細長いイメージからはかけ離れた存在、まさか、きゅうりがこうなるとは・・・。

皮をむいて切って塩で食べたり、漬物みたいにすればよいそうで、やってみたところ、確かに、きゅうりの味がしました。

万田抗と御船千鶴子

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長く続いた雨も明け、毎日毎日暑い日々が続きますね。くれぐれも熱中症にはお気をつけください。

さて、当山妙國寺の近くには近隣観光案内で出していますが、「万田抗」という荒尾市の観光スポットがあります。

明治から昭和の時代、石炭産業によってこの国が支えられていた頃、この地域は大変賑やかで一世を風靡していました。

万田抗はその炭鉱鉱山の一つです。私が子どもの頃は立ち入り禁止の荒れ果てた廃墟だったのですが、最近整備されて歴史を後世に伝える観光名所として生まれ変わりました。

万田抗についてインターネットで見ているとちょっとおもしろいことが分かりました。「御船千鶴子」って方御存知ですか?明治時代、千里眼を持つ超能力者として登場した方なんですが、

御船千鶴子は明治19年(1886年)7月17日、松合の村で漢方医院を開く父・秀益の次女として生まれ、幼いころから勘は鋭いものの、口数の少ないおとなしい女の子だったそうです。17歳のとき、催眠術をかけられたことをきっかけに透視能力を発揮しはじめ、ある婦人が海水浴中に指輪を海中に落とした指輪を透視して、探し当てたそうです。

この話を聞いた三井財閥本社が千鶴子を大牟田に連れていき、当時わずかしか出てなかった石炭を透視させたところ「もう少し南に真っ黒い固まりが見える、何だかわからない」と掘ってみると炭坑の鉱脈にあたり、これが万田抗の起こりだそうです。

評判になった彼女は大学の教授らの元数々の透視実験が行われて、新聞に取り上げられ「透視能力を持つ千里眼の持ち主だ」と全国的に有名になったそうです。

しかし、透視術に対する中傷、家庭内の不和などにより、明治44年(1911年)1月18日、千鶴子は25歳の若さで自らの命を絶ってしまったという壮絶な人生を歩まれた方です。 

日本の超能力者を語る上では欠かせない方のようです。ちょっと前ではトリックというテレビドラマで紹介され、最近ではspecというテレビドラマにちょっと登場していましたが・・・。

閑話休題・・・・

万田坑の敷地に入ると、当時炭鉱マンだった方々が、当時の様子を振り返りながら丁寧に説明してくださいます。お話を聞きながら見学していくと、当時を知らない私たちも坑内の機械や風景にどんどん魅せられていきます。どうぞ、お近くにお寄りの際はお寄りください。

 

ぼくを探しに

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シルヴァスタイン作の「ぼくを探しに」という絵本をご存知ですか?色々悩んでいた青年期、大学生の頃友人に紹介してもらって、大変感銘を受けた絵本です。

 

絵本の表紙に出てくる「少し欠けたまる」が欠けたかけらを探しにいくお話です。

 

何かが足りない それでぼくは楽しくない

足りないかけらを 探しに行く

 

ころがりながら 歌いながら カンカン照りの日も雨の日も雪の日も・・・

からだが欠けている分、あまり速くはころがれません、ミミズや花や昆虫と触れ合ったりしながら愉快に野を越え海を越えて旅を続けます。

 

ある日のこと、かけらを見つけます。しかし、そのかけらは小さかったり、大きかったり、とがっていたり、ぴったりだと思っても、いつの間にか落としてしまったり壊れてしまったり・・・・穴に落ちたり、壁にぶつかったり、ムチャをしたりしながら、ようやく自分にぴったりのかけらに出会います。

 

はまったぞ ぴったりだ! やった! ばんざい!

ぼくはころがる もう すっかりまるくなったから

前よりも ずっと速くころがる こんなことは はじめてだ

 

しかし、あまりにも調子よく転がっていくので、以前のように花や昆虫たちと触れ合ったり、歌を歌う事もできなくなってしまいました。

 

なるほど つまりはそういうわけだったのか

 

そう言って転がるのをやめ、かけらをおろして一人またゆっくりところがっていきます。

 

ぼくはかけらを探してる 足りないかけらを探してる

ラッタッタ さぁ 行くぞ 足りないかけらを探しにね 

 

読んだ人がそれぞれの状況で色んな捉え方ができるこの絵本なのですが、私は、当時、この絵本を「どこかにあるはずのもっと素晴らしい自分や他人とは違った個性」を追い求めて理想と現実のギャップに苦しんでいた自分自身に重なりました。

 

法華経の教えの中に「諸法実相」という言葉が出てきます。「諸法」とはあらゆる存在、「実相」とは真実のことです、あらゆる存在は、そこに存在しているそのままの姿で真実のすがたをあらわしたものである。言いかえれば、あらゆる存在はそのままで、最高の価値を持つということです。

 

自分らしさや個性ばかりが重要視され、ただただ人と違う言動や行動を行った人ばかりがもてはやされて、「自分らしさ」や「まだ見ぬ自分の可能性」を追い求めて苦しみが深くなってしまうのが社会の現状のように思えます。

 

人は人、自分は自分、そうは言っても試行錯誤しながら、かけらを探しながら人生は続いていくものです。

 

どうせなら、踊らされず、素晴らしいそのままの自分に自信を持ちながら歩んでいこうではありませんか?

 

もんじゅのちえ

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文殊菩薩という菩薩をご存じですか?「三人寄れば文殊の智慧」とも言われますように仏教では智慧を司る菩薩として大変有名な菩薩で、法華経のお経の中にも登場されています。こんなお話があります。

むかしむかし、インドには、悪人ばかりが住んでいる国がありました。この国の人々は、いつも悪い事をしたり、乱暴をしたりしました。その事を知った目連(もくれん)というお坊さんが、仏さまにお願いしました。
「仏さま、わたくしを、あの悪い人たちが住む国へ行かせて下さい。何とかして、あの人たちを良い人間にしてやりたいのです」
 すると仏さまは、にっこり笑って、
「それは良い行いです。大変でしょうが、頑張りなさい」
と、悪い人の国へ行く事を許してくれました。

目連はさっそく悪い人の国へ行くと、人々に色々な話をして、良い人間になる為のお説教をしました。
「人間は悪い事をすると、その時は良くても後で必ず恐ろしい罰を受ける。そして死んでからも、必ず地獄へ落ちて苦しむのです。だから悪い事を止めて、良い事をしなさい。乱暴は止めて、困っている人を助けるのです」
ところがいくら目連がお説教をしても、誰一人話を聞こうとはしないのです。それどころか、

「はん、偉そうな事を言っても無駄だ。後でどうなるかよりも今が良ければいいのだ。お前なんか、帰れ、帰れ」
と、石を投げつけたりしました。目連は仕方なく、自分の国に帰ってしまいました。

さてこの話を聞いた、舎利弗(しゃりほつ)というお坊さんは、
「悪い人たちを導くには、やさしく言っても駄目だ。もっと、厳しくしないと」
と、仏さまの許しを受けて、悪い人の国へとやって来ました。
「お前たち、よく聞け!!今すぐ悪い事を止めないと、地獄で永遠に苦しむ事になるぞ! 助かりたければ、おれの言う事を聞くんだ!!」
けれどもこの国の人たちは、「何を偉そうに言っていやがる、帰れ帰れ!!」やはり舎利弗を嫌って追い返したのです。
その後も、五百人ものお坊さんが次々と出かけて行きましたが、誰一人成功した者はいませんでした。

そこで仏さまは、文珠(もんじゅ)という知恵のあるお坊さんを選んで、その悪い人の国へ行かせてみました。
悪い人の国へ着いた文殊は他のお坊さんたちとは違って、この悪い国と悪い人たちを褒めたのです。
「ここは、何と良い国だろう。そしてここに住む人々は、何と立派な人たちだろう。こんな良い所へ来られて、わたしは実に幸せだ」
いくら悪い人たちでも、褒められればうれしいものです。そこで人々は、自然と文珠の周りに集まって来ました。中には文殊に、ごちそうを出す者さえいました。
「このお坊さんは、とても偉い人だ。おれたちの事をわかってくれる」
「そうだ。今までのお坊さんは、おれたちを見下していたが、この人はおれたちを理解してくれている」
文殊は、みんなから尊敬されました。そこで文珠は、
「わたしの先生である仏さまは、わたしなどとは比べ物にならないほど、それはそれは立派なお方ですよ。
 その仏さまの教えを受ければ、あなた方はもっと幸せになる事が出来るのですよ」
と、言ったのです。すると、みんなは、
「それならぜひ、仏さまの教えを受けさせてくれ」
「おれもだ。おれも」
と、仏さまの教えを受ける事にしたのです。それを知った仏さまは、文殊の知恵を大いに褒めて、
「よくやりましたね。人を導くのは、とても難しい事です。ただ人に考えを押しつけるのではなく、その人の考えを理解し、その人とうち解ける事が大切なのです。お前はその事に、よく気がつきました。お前のおかげで、悪い国の人たちも救われるでしょう」
と、うれしそうに言いました。

 

この時から、優れた考えや知恵の事を『文殊の知恵』と言う様になったのです。

 

物事を教えたり議論したりするとき、私達はどうしても自分自身の持ってる知識や経験で物事を判断したり、喋ったりしてしまいがちですが、その人その人が歩んできた人生や考え、環境に寄り添い、理解しながら接するということはとっても大切なことですね。

ウルトラ5つの誓い

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一歳五カ月の長男がだんだんと荒くなってきました・・・・。やはり男の子ですね、テーブルには必ず昇りたがります・・。目を離して静かにしてると思ったら必ず何かイタズラしてます・・・。落ちてるもの何でも食べようとします・・この前は、何かの幼虫を拾って、じーっと見つめて・・・それから口に・・・。寸でのところで止めましたが・・・。

そんな長男、最近、ウルトラマンに熱中しております、「ウルトラマン」男の子なら誰しもが小さいころに憧れるヒーローですね。父親の世代、いやもう今ではおじいちゃんたちの世代から今の子どもたちへと受け継がれているM78星雲 光の国からやってきた宇宙人です。

ウルトラマンが地球上でウルトラマンの姿で活動できる時間は三分です、三分に近づくと胸のタイマーがピコーンピコーンとなりだします。三分間しかあの姿で地球では活動できないんですね、3分間で怪獣と戦うんです。その、ウルトラマンのシリーズの中、「帰ってきたウルトラマン」の最終回にウルトラマンが地球を去る際に自分を慕う人間の子供に伝えた訓示のようなものがあり、これは「ウルトラ5つの誓い」と呼ばれてます。

・一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと

・二つ、天気のいい日に布団を干すこと

・三つ、道を歩く時には車に気をつけること

・四つ、他人の力を頼りにしないこと

・五つ、土の上で裸足で走り回って遊ぶこと

なんか、子どものお約束というような感じなのですが、実はこの四つ目の「他人の力をたよりにしない」はウルトラマンのお話の中で、とても大切なテーマなんです。

ウルトラマンは強い、必ず怪獣を倒して護ってくれます。しかし、ウルトラマンが助けてくれることに慣れてしまった人間が「あぁ、怪獣か、どうせウルトラマンがきてくれるから大丈夫だ・・・」と完全にウルトラマンを頼りにしてしまったなら、いずれは自分自身の手でどうにかしようとしなくなってしまうんですね。

ウルトラマンだって、三分間自分の命をかけて人間のために怪獣と闘っています。ウルトラマンの力を頼りにするのではなく、人間も怪獣と命をかけて精一杯戦った、その時にこそウルトラマンは最大のパワーを発揮して人間と一緒に地球を守るために戦うんです。

 「他人の力を頼りにしないこと」

私達の生活の中でも言えますね、他人の力を完全にあてにしてしまって、それで失敗してしまったこと・・・皆様にも心当たりがあるのではないでしょうか?

このことは実は信仰の中にも言えることなんです。如来壽量品第十六というお経の中で、お釈迦様は「私(お釈迦さま)は滅することなくいつでも、いつの時代もあなたたちの傍にいるのだ。私は方便によって姿を隠したり、現したりしているんだよ。だから、本心から私を敬い、信じるならば、貴方達がせいいっぱい私に、救いを求めたのならば、たとえこの世界のいずこであろうともそこへ行って無上の教えである法華経を説きましょう、いつでもあなたがたを救い、導きましょう」こういう風に仰っています。

「南無」という言葉は心からおまかせするという意味です、「妙法蓮華経」妙法蓮華経というお経を示します、妙法蓮華経というお釈迦様の教え、お言葉を信じて、一体になるという信仰があってこそ、仏様は私たちを救ってくださるのです。ただただ、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えれば救われる、そういうわけではないんです。きちんとそこには、しっかりとした私たちの心のカタチが必要なんです。そうすれば必ず、お釈迦様は私達を仏に導くために助けてくださいます。