» ちょっとしたお話
1月8日(火) 新年初のお寺の行事、「正月大祈祷会」が執り行われました。
天候にも恵まれまして平日の寒い中たくさんの方にお参りいただきまして、ありがとうございました。
昨年はこの日、水をかぶる時氷が張っていました、今年はそこまで冷え込むことはなかったようです。日蓮宗祈祷師による心身を清め皆様のご多幸と祈願成就を導く水行会の後、お申し込みいただいた御祈願が叶いますよう祈祷会が執り行われました。
本年は巳年(へびとし)です。今年来た年賀状、東京で保育士として働いていた時のお子さんのお母さんから届いた年賀状に書いてあったのですが、巳の字は、長い冬の眠りから目覚めたへびが地上にはい出す様を表し、起こる、始まる、という意味を持つそうです。じっと土の中での生活、従来の生活から今こそ目覚めて新しい門出を迎える。
中国の古典にこんな言葉があります。
「伏すこと久しきは、飛ぶこと必ず高し」
やろうと思っていた事、挑戦しようとずっと思っていたこと、動き出す一歩の年にしたいですね。
あけまして、おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。一年明けて本年は2013年へび年です。振り返ってみると一年早いものです。よくお檀家さん方と「毎年毎年一年経つのが早く感じるようになりましたねぇ。」とお話します。
確かに、子どもの頃はあんなに一日が長くて色んな事があったのになぁ・・。
そんな風に感じることもよくあります。考えてみますと、子どもの頃は山へ海へと自然や友達と遊ぶ中で毎日何か新しい事を学んだり発見したりと、日々の生活に新鮮さがありました。大人になるにつれて物事は単調な生活になり、何か新しい発見や学んだりすることも少なくなっていきます。物事に新鮮さがなくなると日々の暮らしというものは何気に単調に過ぎ去っていくものです。
毎日何か一つでも学んだり、発見したりすることがあれば、一日一日、充実したものになっていくのかもしれませんね。
さて、昨年はたくさん著名な方々がお亡くなりになられました。先月、五七歳の若さでお亡くなりになられた、歌舞伎俳優の中村勘三郎さんのお話です、古典の歌舞伎から、常に新しいものへと挑戦していかれ、歌舞伎界に新しい風を吹き込まれた勘三郎さんはある時に、テレビのインタビューで「勘三郎さん、あなたは歌舞伎界きっての型破りと言われていますがこれに対して何かご感想は?」と聞かれましたら「いやぁ~、光栄ですね。型破りというのは型を極めていないと破ることができない、型をしっかりと極めて、型を破ることができたから今があるんですよ」と仰られたそうです。
型を極めるということは基本をしっかり極めるということです。
これは何事にもあてはまりますね。基本をしっかり極めるということはできるようでできないものです。基本は退屈ですし、型にはまってしまうと楽しくないし、他人受けもしないものです。しかし型ができているからこその型破りになれますから、最初から応用を行っていたのではただの型なしになってしまいます。
仏教のもっとも基本的な根本的な教えに「七仏通戒偈」という言葉があります。
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
「悪いことをせず、善いことを行いなさい、それが自分の心を清浄にする、これが仏さまの教えです」
「悪い事をしない、善いことを行いなさい」これらは最も単純な教えですが肝心なのは次の言葉です。
「それが自分の心を清らかにする」何かを行った時、その行為には自分の心がついてきます。自分がどんなに善い事をやったとしてもその心にやましい心があればダメなのです。やましい心とはどういう心でしょうか?それは自分本位の心です。つまりは、誰かが見て、褒めてくれるから、評価してくれるから、損得や自分の利益とかそんなものを勘定にいれずに相手の事をおもい善い事を行う、これが自分の心を清らかにするのです。それが仏教であり、仏さまの教えなのです。
基本的な事ですが、私達の暮らしにとても大切な事です。逆にいうならば、損得だけで人間の行為が行われたり、「誰も見ていないからいいや」という考えが蔓延ってしまう世の中ならばとても恐ろしい世の中です。
行いにこそ、その人の心が現れる。そのことをしっかり心に保ちながら日々の暮らしを生きていきたいものです。
あけまして、おめでとうございます。ついに2013年新しい年がスタートいたしました。
雪、強風、三年前のような大晦日の吹雪を心配し、皆で天気予報と常ににらめっこしながら過ごしていました大晦日の恒例行事 「竹灯篭 水行式」天候にも恵まれまして無事に終わり、ホッとしています。竹灯篭制作にお力添えいただいた、井上さんご兄弟、藤本さん誠にありがとうございました。
本年は荒尾日新商会の川村晃生さん、当山総代の藤本力さん、と私の三人で水行を執り行い、来られた方々の一年の穢れを祓い新年の多幸を願いました。
竹灯篭も最初の年は108の煩悩の炎を消すための水行式という名目だったのですが、108本の竹灯篭では境内を照らすのに物足らず、例年少しずつ増やしていき、今では煩悩の数も400本近くまでなってしまいました
寒い中、お詣りくださった沢山の方々誠にありがとうございます。
水行を経験されたいという方、身体に自身があれば老若男女問いません。是非ご参加ください。御利益は抜群です。今年は残念ながら参拝できなかったというかた、どうぞお気軽にご参加されてください。神社に初詣に行かれる感覚でお気軽に来られて大丈夫です!!
今日は12月31日、大晦日です。今年も振り返ってみますと色々なことがありました。
皆様にとってどのような年だったでしょうか?
2012年、マヤ歴で世界が終ってしまうというような物騒な噂もありました・・・。
外国では騒ぎになったところもあるようですが、結局何もありませんでしたね。
繰り返される終末予言に耐性ができてきたのでしょうか。
まぁ、時代や文明や国によって思想はちがうのに、そこで生まれた終末思想に今それぞれ違う場所で現代を生きている人たちが振り回されるのはなんだか滑稽な気もします。
閑話休題・・・・・
良いことたくさんあって幸せな一年だったという方、あまり良いことがなかったという方。
すべての人に平等に時間の流れは訪れます。様々な事が時の流れと共に過去になっていきます。
一年が始まるということは、考え方を変えてみるならば、ゼロに戻って新しいスタートから一歩を踏み出せるということです。
昔は歳の数え方も誕生日に一つ年を重ねる満年齢ではなくて、新年を迎えた時に皆一斉に年をとる数え年という数え方でした。
一から始まる、という新鮮な気持ちで一日一日を大切に生きていきたいものですね。昨日からお手伝いをいただき、ようやくお寺もお正月を迎える準備ができました。
本日11:30~ 「竹灯篭・水行式」 予報では雪ということですが、今は晴れです。
寒いですが、一年の締めくくりとして、良き年がスタートできますようにどうぞ初参りに御参加ください。お待ちしております。
皆様の新しい一年の笑顔と幸せが多きことを妙国寺はいつも祈っております。
12月25日と27日に、フラワーアレンジメント教室がありました。
今回のアレンジの題名は「花おせち」だそうです。すごいです。
お母さんたちがフラワーアレンジをされている最中は子どもたちは別室でクッキーに絵を描いたり、風船で遊びました。
おかあさんも子どもたちも楽しい時間を過ごしました。ご参加ありがとうございました。
さて、悲しいお知らせですが、「お寺でフラワーアレンジメント」で講師をしていただいていました、natural garden MUM のsatomi先生が遠方へお引っ越しのためにsatomi先生のアレンジメント教室は12月で終了になります。たくさんの癒しの時間をありがとうございました。先生の新しい旅立ちにたくさんの笑顔と幸せがありますようにお祈りしています !!
なお、1月の「お寺でフラワーアレンジ」は第5火曜日の13:00~です。新しい先生をお迎えしてのアレンジになります。詳しくはホームページ上でまたお知らせいたします。お楽しみに!
10月から始まりました、natural garden MUM さまによります「お寺でフラワーアレンジメント教室」託児有。季節の花を使われての癒しの時間、来られた方に毎回「非常に良かった!!」感想をいただいております。
先月は
このような感じではじまり、
このようなアレンジが完成しました。いやはや、このようなアレンジをされる先生方の発想力、創造力はすごいです。
以前保育園で働いていた私たち夫婦が日々子育てに追われるお母さんたちを応援するため、短い時間ですがフラワーアレンジの時間だけは日ごろの疲れから解放していただこうと託児付きで始めた企画ですが、楽しそうに過ごされて帰って行かれるお母さんたちの顔を見ると「あぁ、やってよかったな」と思うとともに、お寺の中でで楽しそうに遊んでいる子どもたちや、「お寺の本堂って今まで来たことがありません!すごい何か癒されました~」などのお声を聞くとお寺ってこういう可能性もあるんだなと、改めて有発見させていただいた感じです。
毎月、第四火曜の13:00~15:00 行っております。レッスン料は花代含めて3500円です。お気軽にお問い合わせください。
あれだけ暑かった季節も終わり、あっという間の秋が過ぎ今日からいよいよ12月ですね、本格的な寒さがやってきました。この季節になると、マフラーや手袋が恋しくなります。
「人間て本当にいいものかしら・・・」こんな言葉で締めくくられる狐の親子のお話、『手袋をかいに』という絵本があります。こんなお話です。
とある雪の降り積もった日・・・・
「お母さん、お手てが冷たくて痛いよ~」
「あらあら、可愛そうに・・手に霜焼けができてるわね~、夜になったら町まで降りてぼうやにぴったりの手袋を買いにいきましょうね~」
しかし、夜一緒に街の側まで降りてきた狐親子ですが、お母さんは昔町で人間に捕まりそうになり命からがら逃げ出してきたことを思い出して怖くなってしまい、どうしてもお母さんの足が前にすすみません。
しかたないので、お母さんは子狐を一人で街に送り出すことにしました。
「坊や片方おててをお出し」お母さんが手を握ると子狐の片方の手は人間の手へと変化しました。
「変なの、これは何?」
「それは人間の手よ、いいかい坊や、町へ行ったら人間の家がたくさんあるからね、帽子屋さんを探すんだよ。そして、トントンと戸を叩いて、今晩はって言うんだよ。そうするとね、中から人間が少し戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うんだよ、わかったね、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ」
「どうして?」
「人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、捕まえておりの中へ入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ」と言って母さんの狐は持って来た二つの銀貨を、人間の手の方へ握らせてやりました。
「うん、わかったよ!!じゃあいってくるね~」
子狐は教えられた通り、看板の家を見つけトントンと戸を叩きました。
「今晩は」
すると、戸が一寸ほどゴロリとあいて、光の帯が道の白い雪の上に長く伸びました。
「まぶしい!!」
子狐はめんくらって、まちがった方の手を、――お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手を隙間からさしこんでしまいました。
「このお手々にちょうどいい手袋下さい」
「おやおや、これはこれは・・・。狐の手が手袋をくれだなんて、きっと木の葉で買いにきたんだな・・・よし、先にお金を下さい」
「はい、どうぞ」
「あれ・・これは・・・木の葉じゃない、ほんとのお金だな・・。ちょっと待っててくださいな。」
「はい、どうぞ」
子狐は、「ありがとう」と、お礼を言ってまた、もと来た道を帰り始めました。
「お母さんは、人間は恐ろしいものだって言ってたけどちっとも恐ろしくないや。だって僕の手を見てもどうもしなかったもの、いったい人間てどんなものだろう・・」
子狐は途中通りがかった家の中、人間の子どもが自分と同じようにお母さんに甘えているのを見て、急にお母さんが恋しくなって急いでお母さんの元へ帰ります。そして物語は母子の会話で幕を閉じます。
「お母さん、人間て・・・ちっとも怖くないや」
「どうして」
「僕、違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」
まぁ、とあきれながら、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました。
この『手袋をかいに』の作者は児童文学者の新美南吉という人です。彼は29歳の時に若くして亡くなってしまいました。南吉は、短い生涯の中人を信じては裏切られ、激動の人生を過ごしています。母狐の最後の言葉は南吉の呟きだったのではないかと言われています。
日々のニュースを見ると目を覆いたくなるような事件ばかりが後を耐えません。
「人間てほんとうにいいものかしら・・・」誰もがこのようにつぶやくことはあるでしょう。しかし、絵本の中でも、結果として子狐は手袋を買うことができました。南吉は信じていたのでしょう、どんな時代でも、「人間はいいものだ。人間はいいものだ」と。
人間の持つ善の面、必ず仏になれるという、「仏性」をひたすら信じ尊重した生き方の見本として法華経の中に『常不経菩薩』という菩薩さまが出てきます。
この菩薩さまは「私はあなたたちを敬い、決して軽んじません。なぜならあなたたちは未来に仏となられるからです」と、どんなに馬鹿にされても道で出会った人々の仏性を信じてひたすらに礼拝され、やがて後の世にお釈迦さまとなって生まれて仏となられました。
人を礼拝し続けるというのは一見簡単そうに見えてある意味ではとても難しい修行です。なぜなら悪人も善人も怠ける人も努力家も皆から好かれる人も、皆から嫌われる人も、すべての人を肯定しなければならないからです。どんなに裏切られても心の底から人を信じなくてはならないからです。
「理想論」、と言ってしまえばそれまでですが、他人の悪い面ばかりを見ていても何も解決はしないし、人間関係はすすみません。行き詰った時はどんな人でも必ず持っている「仏性」、ほとけさまの心に目を向けてみること、このことも大切なのではないでしょうか?
私達は普段、いつかはこの命が終わってしまう事について真剣に向き合う機会はなかなかありません。老いたら老人施設、病気になったら入院、そして死を迎える時は病院。死は禁忌化されてどんどん「死」が遠くなっているのが現状です。
棺桶の中、入ってみると、お経が聞こえたり、色んな人の声がちゃんと聞こえています。人は死んだら、棺桶に入ったら終わり、決してそうではありません。きちんと、亡くなった方に感謝や供養が必要なのです。
死ぬ前に棺桶に入ったり、死後について考えをめぐらすことはなかなかできる機会はありません。自分の終わりをみつめてこそ、よりよい生き方がみつけることができるのではないでしょうか?この企画がきっかけとなり、皆様がかけがえのない一日一日の命を大切にしっかりと過ごされることを少しでも感じていただければ幸いです。
「悪い事をすりゃ地獄に堕ちる・・・。たったそれだけの事を忘れた途端、人の世界は腐っちまった」
昔見たアニメの中で人間を何百年という長い間見つめてきた妖怪が言った台詞です。お寺に入ってはや五年になりますが、今しみじみと、なるほどなぁ。と感じることができます。
先日、21日熊本 本妙寺にて、日蓮宗青年会による「寺フェス」が行われました。メディアでも様々なところで取り上げていただきました、本妙寺とその参道、塔頭と呼ばれる参道沿いの11の寺院で一般の方々のご協力を仰ぎながらお坊さんならではのアイデアで、楽しみながら、お寺に触れていただけるような企画を熊本県内の地域ごとにグループに分かれて行いました。私は荒尾、長洲組に属しておりましたので、塔頭の静明院さまで四十九日体験ツアーという企画に携わらさせていただきました。
「人は生命がおわるとどうなるのか?長い旅に出るのです。」
この企画は人が亡くなって、あちらの世界にいくまでの四十九日の間には、なにがあるのか?知っていただくための企画です。まず、最初に納骨堂のお釈迦さまの前でお経を読み、その間据え置いた棺桶に入っていただき、そこから出発していただきます、今生での罪を裁かれるために七日ごとに裁判を受け、その裁判で弁護していただくための仏さま、菩薩さま、明王を七・七日まで探し、最後にたどりついた浄土の世界で達成証明書と、疲れを癒すために境内でやっていた成仏マッサージの割引券をお配りしました。
四十九日という意味合いはなんとなく知っておられても、何故七日ごとにお経をあげるのか?何故お葬式と言う儀式が必要なのか?知っていただく良い機会になったと思います。
さて、参加された方々から、七日ごとの達成の時のナビゲートの文章がまとめてゆっくり見たいと言われる方が多数いらっしゃいましたので、そのままupさせていただきます 🙂 。