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「欲」と上手に付き合うこと。

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先日テレビを見ていますと、とある番組で石原都知事が、日本衰退の原因として「今の日本人は、政治家にしても役人にしても、企業人にしても誰しも、一番強いアイデンティティが『我欲』になってしまった、このことが日本の衰退の原因である」と仰っていました。 

 「我欲」とは一体なんでしょうか?辞書で調べてみますと、我欲とは、「自分一人の利益、満足だけを求める気持ち」と載っておりました。自分さえよければよいという個人主義、利己主義、またはエゴイズムと同じような意味でしょう。 

 

欲望を全て否定して生活するのは不可能であり、人間が人間として生きるためには、ある程度の欲望は必要です。今の社会は便利さと人のニーズに合わせて、不自由さを解消するためにどんどん新しい商品や新しい商売が産まれています、豊かな社会を追い求めて、ある程度のお金があれば大抵何でも欲望を満たすことは可能になりました。

 しかし、人の欲望は収まることを知りません。欲望というものは満たされればその場は満足しますが、また新しい欲望が次から次へと湧き上がるものです。そうしているうち、何かを得る代わりに自然と大切な何かを失っていくものです。

 イソップ物語にこういうお話しがあります。

あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。

ある朝、おばあさんがびっくりしておじいさんに言いました。

「おじいさん、大変です!うちのめんどりが、黄金の卵を産みましたよ」

「どれどれ、本当だ!

 めんどりは、毎日一つずつ、金の卵を産みました。それは、街で売ると大変高いお金で売れました。

貧乏な二人は大変な大金持ちになりました。しかし、だんだん欲が出てきました。

「毎日金の卵を生むくらいだ!体の中にはまださぞかし金がいっぱいあるにちがいない!」

おじいさんはめんどりを殺してお腹の中を調べました。

しかし、お腹の中には金のかけらもありません。普通のにわとりと同じでした。

 

妙法蓮華経普賢菩薩勧発品という妙法蓮華経第二十八番目のお経の中に、『少欲知足』という教えが出てきます。

文字通り欲を少なくし、足ることを知るという意味です。「知足」とは、「私はもうこれで十分です、こと足りました」と知ることを言います。もっと、もっと、と欲望を膨らますのではなく、もうこれで十分だ、これくらいにしておこうという心を持つことです。ものに溢れて、欲望を無駄に掻き立てる社会に踊らされずきちんと自分を持って生きること。そのことによって欲は少し小さくなります。

欲が小さくなればその分、満たされた心のまま生きることができますので毎日幸せに生きることができます。

 先ほどのお話しにでてくるおじいさんおばあさんも「これで十分だ」という心があればそのまま豊かに幸せな生活ができたことでしょう。

社会が発展し豊かになることは確かに大切なことです。しかし、上手に欲望と付き合っていかなくては、大切なものを見失い、行きつく先は破滅しかありません。あくなき欲望をコントロールし、幸せに暮らす生き方は仏様の教えです。どうぞ、ご精進ください

 

正覚寺 正月大祈祷会・水行式

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本日11:00より荒尾市上井手の「日蓮宗 正覚寺」におきまして、水行式・正月大祈祷会が執り行われました。寒さは厳しかったものの昨日までの暴風雪もすっかり止み、天候にも恵まれました。

熊本の各地より五名の日蓮宗修法師が出仕し致しました。正覚寺のご住職さまとは、当山の法要に出仕していただいたり、様々な面でお世話になっております。

                                                                ご住職が、大祈祷会の後「鬼子母神様は、一般的に、子どもを守る神様として知られています。けれども子どもだけを守る神様ではないんですよ。私たちはいくつになっても、仏さまの子どもなのです。だから、鬼子母神様は私たちを常に守っていてくださるんですよ。だからしっかり鬼子母神さまを頼ってお参りをされてください」というお話をされました。

 

ウサギの耳

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先日、昨年プリウスの問題で揺れた「トヨタ」の社長が

「今年はうさぎ年ということもあり、ウサギのように大きな耳で人の話にしっかりと耳を傾けて、真摯に受け止め、そしてウサギのような跳躍力を持って挑んでいきたい」とテレビのインタビューで今年の抱負を語っていらっしゃいました。

ウサギの大きな耳は、音を集めるアンテナの役目をしており、耳は大きい程たくさんの音を集めることができるので、長い耳のアンテナを使い、しっかりと耳を傾けかすかな物音も聞きのがさないようにしているそうです。

私達は、人の話を聞くときに興味のある話ならば、「なるほど、なるほど」とすらすらと頭の中に入ってくるのですが、どうしても興味のない話や、自分にとってバツの悪い話や耳の痛い話ほど、なかなか頭には入ってこず、聞こえてはいても、結構聞いていないものですね。だからこそ、話をしているその人が一体何を言いたいのか、自分に何を伝えたいのか?しっかりと耳を傾けて、共感し、受け入れようとする態度も時には必要なんです。

人と人との信頼関係を築くうえで人の話に共感し、しっかりと耳を傾けることは大切な事の一つです。自分の価値観にとらわれずに、相手を受け入れて、共感しその人の話にしっかりと文字の如く耳と目と心できく。このことを「傾聴」(けいちょう)と言います。

お経も、よく「お経ってのは一体何が書いてあるんですか?よくわかりませんね~」と言われます。確かに・・・お経は漢文で書いてあり、お坊さんも漢文で読むことが多いので聴いている方もわからないのはごもっともです・・・。

お経というのは要約して言えばお釈迦様が私達をあらゆる苦しみから救うために説かれたお言葉なのです。皆さんがいつも読まれていらっしゃいます、『妙法蓮華経如来寿量品第十六』お自我偈の中には「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず、而も実には滅度せず。常に此に住して法を説く」【(訳)私は人々を救うために、あなたたちの眼には肉体は滅んだように見えていても、実際には死ぬことなく、この世界から片時も離れず教えを説き続けているのだよ。】というお釈迦様の言葉が出てきます。

実は、お釈迦様は絶えず今でもこの世界から教えを説き私達を救おうと常に働き掛けていてくださっているんです。けれども私達はそんなお釈迦さまの声に気づけていない。それは、お経の意味を「わからない」と遠ざけて、お釈迦様が何を仰りたかったのかをきちんと聞こうとしていないからかもしれません。

お釈迦様が教えを説かれるのはお経の中だけではありません。日常生活の色んな場面、悲しい出来事があったり、幸せな出来事があったり、素晴らしいい場面に出くわしたり、その場面場面で人の愚かさや人の優しさ、人の素晴らしさ、人生の素晴らしさに改めて気づかされることがありますね。その時々で、心を澄まし、耳を大きく聞こうとすれば、きっと私達を導こうとしていらっしゃるお釈迦様の声が聞こえてくることでしょう。

信じること

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11月に入り、朝、晩と急に寒さが厳しくなってまいりました。

旧暦ではもう季節は冬であり、この時期になると霜が降りますもので「霜月」と呼ばれました。

今年は夏が大層暑く、寒暖の差が大変激しいものですから身体の調子を崩される方も大変多くいらっしゃいます。何事も身体が基本でございますで、どうぞよろしくご自愛いただきたいと思います。

私も毎日お経を読んだり、お話をさせていただいたり何かと声を使うもので、風邪をひいてしまうとすぐ喉に症状がでて、声が出にくくなるものですからなるべく体調管理をしっかりしなくてはいけないなと心がけています。

お話をするにあたっても、先生や諸先輩方からお話の基本であります、「かた」が大事と言われました。まず「かた」というものを勉強しなさい、そのかたに血が通う事によって「かたち」になるのだよと、お話の組み立て方や喋り方や振る舞い方から習います。1声 2節 3姿であると何度も何度も指導を受けました。

 今の時代・・・。ちょっと古臭くも感じられるかもしれませんが、昔から、結婚する時は「花嫁修業」と申しまして、お嫁に行く時はあちらの家に失礼のないように、何事も基礎が大切と親が我が子に躾だとか、礼儀作法などのような基本的なことを教え込みました。

江戸の小話にこんなお話しがございます。

 今まで自由奔放に育ってきた一人娘に急に縁談が持ち上がった。お嫁に参りますので、お母さんが娘に言いました。
「お前は言葉づかいが悪いから、気をつけるんだよ。言葉の前には『お』の字をつけて、丁寧に言うんだよ!」
「『お』の字をつけて言えばいいんだな。わかった!」
 それから無事に結婚式が終わり、娘はお嫁さんになりました。
 次の日、娘はお姑さんに言いました。
「お台所の、おすりこぎ棒が、お風に吹かれて、おころん、おころんと、おなっております」
 それを聞いたお姑さんが、娘に注意しました。
「丁寧なのはいいが、そんなに何にでも『お』をつけるもんじゃないよ」
 しばらくして娘が里帰りをした時、その時の話しをするとお母さんは言いました。
「それは、お姑さんの言う通り。あんまり『お』ばかりつけるのも、おかしいよ」
「『お』をつけると、おかしいんだな。わかった」
 娘が里から帰ると、お姑さんが聞きました。
「里では皆さんおかわりなかったですか?」
 娘はお母さんから、あまり『お』をつけるなと言われたのを思い出して答えました。
「はい、やじも、ふくろも、元気でございました」
 これには、お姑さんもあきれてしまいました。
 そしてこんな娘では困ると、とうとう里に帰されてしまったそうです。

 物事には基礎が大切。基礎というものはきちんと最初から身につけておかないとおかしなことになるもんです。実は、仏教も基礎というものが大切なんです。

 日蓮宗のお経、二十八章あります中で、一番重要とされている第十六章、如来寿量品第十六の冒頭の部分に、こんな言葉が出てきます。

「諸々の善男子、汝等当に如来の誠諦の言葉を信解すべし」

お釈迦さまが弟子達に「まず疑いの心を捨てて私真実の言葉を語るのを信じなさいよ」とこれが、三度に渡って繰り返されます。この寿量品では、お釈迦様が過去、現在、未来に渡って私達の傍にいてくださり、常に私たちを何とか救おうと働きかけてくださっている、永遠の存在であることがお釈迦様の口から明らかにされます。

言葉というものは完全なものではありません。想いを言葉で表現するには限界があり、不十分です。しかし、私たちは完全な以心伝心はできませんので、言葉がなくては表現できません。だからこそ、聞くこちら側の「信じる」というものが基本であり、この「信じる」が実は仏教で言いますところの一番大切な基礎になってくるのです。

日蓮大聖人もお手紙の中で、「信なくしてこの経を行ぜんは手なくして宝の山に入り、足なくして千里の道を企てんがごとし」と説かれています。「信」があるからこそ、宝の様な尊い教えを感じることができるんです。

 何事も基礎をおろそかにすると、大切なものをつかむことはできないんですね。

お会式

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旧暦十月十三日は日蓮大聖人の御命日です。毎年十~十一月には日蓮大聖人を偲び全国各地でお会式法要が執り行われます。日蓮大聖人の晩年は六年間にもわたる「はらのけ」と呼ばれる腹痛、下痢、痩せ病の闘病生活でした。病状は徐々に悪化をたどり、あわやというところまで何度も症状は進むのですが強靭な精神力でもって何度も乗り越えられ最後の最後まで前向きに生きられ、布教活動、弟子・檀信徒の教育に勤められたのです。

例え、現代でも、六年に渡る闘病、致命的な状態が続くというならば、体力も気力も衰え、下手をすると寝たきりの状態になりかねません。しかし、今よりもはるかに医療水準も栄養状態も現代とは比べようもならない七〇〇年も前に、御自身の病気と向きあわれ、その辛さや苦しみというものと向き合われ、大聖人の身を案じて贈り物が檀信徒から届くと必ず御返事を書かれ、周囲から受ける温情への感謝の気持ちを檀信徒の方々へいくつもお手紙の中で述べられています。

その中の一つ「波木殿御報」というお手紙を紹介します。

日蓮大聖人が身延の地から療養の為に常陸へと湯治へ出かけられ、旅路で症状は悪化し、今の池上本門寺がございます場所で病床に着かれたのです。最後に、病床の渕にて、筆を持つ事までできなくなられ、日興上人が代筆されたこのお手紙の中、当時身延の地を治める領主であり、日蓮大聖人にあつく帰依していた波木井実長にこのようなお手紙を出していらっしゃいます。このお手紙が日蓮大聖人が檀信徒に出された最後のお手紙になりました。

『謹んで申し上げます。身延を出発して以来、道中は何事もなく武蔵国池上に到着いたしました。道中の間、山あり河ありで、はなはだ困難な旅でしたが、貴殿の御子息たちに守護していただき、無事に池上まで着きましたこと、まことにありがたく悦ばしく思っています。この道は病気が平癒すれば、身延帰山の道になるとは思いますが、病気の身ですから、必ず帰山できるかどうかは定めなきことで、あるいはお会いできないかもしれません。しかしながら、日本国中があれほど持て余していたこの日蓮に、九ケ年もの間、御帰依くだされた御志はまことにありがたく、たとえどこで死にましても、墓は身延の沢に造っていただきたいと存じます。

また、貴殿からお世話いただいた栗鹿毛の馬は大変愛着を覚えますので、いつまでもそばにおきたいと思います。常陸の温泉まで連れていきたいのですが、人に盗られてしまうかもしれませんし、またつらい思いをさせてはかわいそうなので、常陸の温泉から帰るまで上総の斉藤兼綱殿のもとに預けておくことにしました。しかし、馴れない馬の世話方をつけたのでは不安ですので、私が帰るまでは貴殿が差し向けられた世話方をつけておきたいと思います』

大聖人はとかくに力強い、論戦好きであるというイメージがどうしても強いですが、このお手紙の中では、波木井実長より贈られて一緒に身延から旅してきた馬にまで温情をかけらおられ、様々な檀信徒へのお手紙を読みますと、御自身の最後と向き合いながらも、大聖人の全てを包み込むような優しさが伝わってまいります。

このお手紙を出された同月九月二十五日に参集した門下の人々に最後の談義として「立正安国論」を講じられ、翌月八日、自分亡き後の教団を託す六人を決められ、十二日、お釈迦さまが北の方角に向かって臨終を迎えられたのにならいご自身も北に向かって座され正面には大曼陀羅、かたわらには常に携えてこられたお釈迦様の像、弟子檀信徒が法華経を読誦し続ける中、十三日の午前十時頃に御入滅されたのです.

十一月八日は当山でも「宗祖日蓮大聖人お会式法要」が執り行われます。私たちが「南無妙法蓮華経」とお唱えすることによって故人、御先祖様を供養できるのも、お題目によって「なんとかお救いください」と祈願できるのも日蓮大聖人が度々のご法難にあわれながらも、御自身のお命をかけて法華経、お題目を弘められたからです。その御恩に感謝しながら各地でおこなわれます「宗祖日蓮大聖人お会式法要」にどうぞすすんでご参詣ください。

お墓参りの仕方

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お盆が近づき、お墓参りをされる方も増えてきました。お墓参りの仕方と言っても、故人やご先祖様を悼み、供養するやり方は千差万別あってよろしいと思います。基本的なお墓参りの仕方を載せてみました

1.まずはご先祖様に感謝しお墓に手を合わせましょう。

 2.周りをほうきできれいに掃き、ゴミを拾います。そして汚れたり、コケの生えている墓石は、水をかけながらたわしで洗ってきれいにします。線香台、水鉢、花立も丁寧に洗いましょう。

3.  墓石に打ち水をし、花立に花を添えて、水鉢に新しい水を注ぎます。そして故人の好物だった菓子・果物などをお供えし、ろうそくとお線香を手向けましょう。(*供物はお参りが終わったらお持ち帰り下さい)
※半紙や懐紙をお皿代わりにお供えを置くとよいでしょう。

4.合掌礼拝の前に水桶からひしゃくで水をすくって、墓石にかけます。この時に墓石の下のほうに気持ち程度に水をかける方がいますが、たっぷり墓石の上から水をかけて下さい。
※仏教の教えでは、死後の世界の1つに「餓鬼道」があり、福徳を失った生類が落とされる世界とされています。なかなか水が飲めない餓鬼が、唯一お墓にかけたお水だけが飲めるのです。その餓鬼をあわれんで、お水を与えようというところから墓石に水をかける習慣が始まりました。

5.皆さんで手を合せ「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えましょう。

6.最後に本堂の御本尊へお参りをし、仏様にお墓参りの報告をしましょう。

*お墓参りは近況報告や日頃の感謝の気持ちを伝え、心を込めてお祈りしましょう。

*法要が営まれている時はすすんで参加しましょう。霊園がお寺にある場合はせっかくですので是非お寺の法要にご参加されてください。お気軽にどなたでもご参加できるものです。法話をお聴きになったりしてこの機会に仏教に触れてみましょう!!

心の中のほとけさま

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長い梅雨が明けると急に暑さが厳しくなり、今年はいつもより熱中症で倒れる方が大変多くいらっしゃるそうです。

皆様お元気に過ごされているでしょうか?さて、この暑い季節になると、暑さが煩わしく感じられますが、もう一つ夏特有の煩わしいものがあります。夜中に寝ているとどこからともなく耳元で「ブーン・・・」と出てきて安眠を邪魔され、「捕まえた」と思ったら逃げられ・・・。また、忘れたころに「ブーン・・・」と出てきて「あぁ、もう!」こんな感じで寝不足になられた経験がある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

夏にはつきものの生き物「蚊」です。刺されると痒くなりますし、寝ていると耳触り、なんだか嫌われものの存在に思われる「蚊」ですが、子どもの歌にこんな歌があるのをご存じですか?

 「ちびっかぶーん」

ちびっかぶーんはちっちゃな蚊
下水のお水がふるさとで

ちびっかぶーんのきょうだいは
三千三百三十人

 ちびっかぶーんはやさしい蚊
人を刺すのがイヤだった
ちびっかブーンははらぺこで
いつまでたってもチビだった

 ちびっかぶーんに花達が
朝露お飲みと言ったけど
ちびっかぶーんを蝶々が
あっちへおゆきと追い出した

 ちびっかぶーんは秋の朝
寒さに凍えて死んでいた
ちびっかぶーんを神様は
ちっちゃなちっちゃな星にした

ちっちゃなちっちゃな星にした

この歌詞を見ると、なんだか今迄「蚊」に持っていた、いやーな印象も変わってしまいそうですね・・・。

保育士をしてた頃に、この歌を劇にして子ども達と一緒に演じたところ子ども達もこの歌が「すーっ」と心の中に響いてきたようで「ちびっかぶーんは優しいね~。ちびっかぶーんみたいな優しい蚊もいるのかな~でもちょっと可愛そうだね。」なんて子ども達の中で会話されていました。

人を傷つけるのが嫌だから、自分が傷ついてしまう。現代の社会においてこの「ちびっかぶーん」のように優しい人ほど社会から他人から傷つけられているのが現状かもしれません。心の病を患った方を看護する施設で働く職員の方がこのようなことを仰っていたのを覚えています。「この施設に入所していらっしゃる方は、皆さんとても心が優しい方なんです。優しい方ほど人の痛みに敏感で正直なんです、だからこそ人を信じ、傷いて、この社会でうまく調和がとれずに自分をどんどん追い詰めて傷ついていってしまうんです・・・」

人を心から信じるというのは何よりも難しいことです。「いつか自分も裏切られて傷ついてしまうことがあるかもしれない」という、不信感が必ず誰しもあるからです、心から人を大切にする優しい心があっても人を信じるということは難しいかもしれません。

何があっても人を心の底から信じた生き方の見本として、法華経の中に常不軽菩薩という方のお話が出てきます、常不軽菩薩は人間の中にこそ仏を見出だし、人間が持つ善の心を礼拝され、出会う人出会う人に礼拝する行を続けられました。人々は見も知らぬ者に拝まれる筋合いはない、とばかりに腹を立て、中には杖木で打とうとしたり、石を投げる人もいました。しかし、その人に対しても掌を合わせ、礼拝し、大きな声で「私はあなた方を尊敬します、決して軽蔑するようなことはしません。なぜなら、あなたがたはいずれ仏になるのですから」と呼びかけ続けました。この礼拝行を続け、自分の死期が近づいた時に如来の導きによって六根(目・耳・鼻・舌・身・意)が清らかになりやがてこのうえない悟りを得てついに仏となったのです。

このように、心の底から人を信じ、人の中に住む仏さまを信じることができた時、自分の中の仏さまも目をさまし、仏の道へと一歩近づいているのではないでしょうか?

悲しみの底からこそ世界はひらかれる

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法華経『如来寿量品第十六』の中に「常に悲観を懐いて心遂に醒悟し」という言葉が出てきます。「どうしようもなく深い悲しみに打ちのめされ、どうしようもない切羽に立たされてはじめて、人はその悲しみの底から迷いの眼がひらかれてくる」というお釈迦様の言葉です。

私達は日々生きていくうえで、なんで私がこんな目に・・・、なんで私の愛する人が何でこんな悲しいこと出来事に・・・ということは、必ず誰にでも起こります。

愛する人の急な死であったり、病気だったり、事故だったり、男女の別れであったり、自問自答して悲しんで悲しんで、自分を責めたり、原因を探して誰かにあたったり、「あの時にああすればよかった、こうすればよかった・・・」悔やんでみたり、その悲しみは様々です。

そんな時、お釈迦さまは「その悲しみは無駄ではないよ、悲しみの中からこそ得るものもある。そこから悟れることもある、悲しんで悲しんで、その悲しみの底からこそ、世界が開かれてくるのだよ」と、このように私たちに教えてくださっています。

私たち人間は何かを失ってしか気付けないことがたくさんありますね。病気になって初めて普段の健康のありがたさがわかったり、誰かを亡くして、失って、初めてその大切さに気がついたり。その人が自分に遺してくれたものに気がついたり、悲しみによって気づいたことはその後の自分の人生にとってのなによりの道標になります。

だからこそ、私たちは悲しみとその悲しみから得たものを大切にしていかねばならないのです。悲しみを否定するのではなく向き合ってこそ、それは得られるものでしょう。

そこで得たものはきっと、仏さまが私たちに与えてくださった、この先何かまた自分の中に悲しみが起こった時にまた立ち上がれる手立てであり、同じような悲しみで苦しんでいる誰かを救うことのできる手立てであると思うのです。

悲しい出来事というのはいつまでも続くことはありません。「法華経を信じる人は冬の如し、冬は必ず春となる。未だ昔より聞かず見ず、冬の秋へと返れることを、未だ聞かず、法華経を信じる人の凡夫となることを」日蓮聖人もこのように仰っています。

深い悲しみが起こった時、必ず仏様がいつもそばにいてくださっている。見てくださっている。そしてこの悲しみから何かを得て、そして生きていく。そう思い、信仰を胸に、今を生きていきましょう。

誰にだって必ず朝は訪れ、春は訪れ、その悲しみが和らぐ時が来ますから・・・

見えないところに根を生やす

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法華経の熱心な信者であった宮沢賢治人の宮沢賢治に「雨ニモ負ケズ」という有名な詩があります。東北地方で貧しい農民たちと生活をともにした賢治が、その生き方に感銘を受けこういう人になりたい、と自分にいいきかせた素朴で力強い詩です。

 

 そのパロディーに「雨ニモアテズ」というのがあります。賢治のふるさと・岩手県盛岡市の小児科の医師が学会で発表したものだそうです。職業上多くの子供たちに接していて、まさにぴったりだと思ったといいます。作者はどこかの校長先生だそうです。

 

 雨ニモアテズ 風ニモアテズ

 

 雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ

 

 ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ

 

 意欲モナク 体力モナク

 

 イツモブツブツ 不満ヲイッテイル

 

 毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ

 

 朝カラ アクビヲシ  集会ガアレバ 貧血ヲオコシ

 

 アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ

 

 作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ

 

 リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ

 

 東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ

 

 西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ

 

 南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ

 

 北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ

 

 日照リノトキハ 冷房ヲツケ

 

 ミンナニ 勉強勉強トイワレ

 

 叱ラレモセズ コワイモノモシラズ

 

 コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ

 

まさに、現代の子どもの様子をうまく表した詩であると思います。

子どもの教育方針として最近メディアではさかんに、「子どもは褒めてのばしなさい!!」この言葉をよく耳にします。

教育現場でも家庭の中でも今、まさに「褒めて伸ばす教育」というのが主流になってきているようで、以前私が勤めていた保育園でも「子どもは褒めなさい。大げさでもいいから身体をつかって褒めなさい!!」と、盛んに上司に言われていました。

自分が子どもの頃は先生や両親に叩かれるのも怒られるのも当たり前、近所でいたずらをすれば怒られたし、テストで悪い点とっても怒られたし、悪いことをすれば素直に「ごめんなさい」と謝ったものです。

 今は時代が違いますから。とよく有識者やコメンテーターがテレビで言っています。うかつに子どもを叱ればその親から逆上されるし、子どもから逆上されて、事件にまで発展してしまうのも度度です。子ども自体も、親もナイーブになってしまい、叱ること、叱られることが精神的な苦痛になってしまうようです。確かに、褒めることは大切です。「~はダメ」「~だからダメ」などの否定的なマイナスな言葉しかかけられないような育て方は子どもの自尊心や人格を酷く傷つけます。褒められることによって子どもは自分自身を認めてもらえる喜びを味わい、物事の達成感を実感することができて、成長するのは間違いありません。 

しかし、この褒める育て方、この風潮があまりにも強くなりすぎることは、あまり良い影響を子どもや親、教育者、保育者に与えるとは思えないのです。

実際「ほめて伸ばす教育」が主となって行われた場合、「誰かが褒めてくれないと、誰かが見ているところじゃないと、善い事というのはやっても意味がないんじゃないかな?」という考えを生みださないでしょうか?そして親や教育者にしても「叱ってはいけないのだ、ここでイライラしてはいけない。」という考えに捕らわれ過ぎるとかえって自分の身を締め付け、良い教育などできないのではないでしょうか?自分の経験上、新人の教育者や保育者が叱らずに子どもの集団を育てるというのはかなり難しいことだと思います。

ならばこの先どのような教育が大切なのでしょうか?

法華経の最後の章、妙法蓮華経普賢菩薩勧発品において、お釈迦さまは法華経の教えを修行するうえにおいて四つの大切な項目を示されました。その四つの教えの中の一つに「諸々の徳本を植えなさい」ということが説かれています。徳の本を植えるということは、善根を植える、陰徳を積むということです、言いかえれば人が見ていない時こそ良い事をしなさいということです。いくら立派なことをしても「自分がやった」ということをひけらかしているようではいけません。人に褒められようが褒められまいが、そんなことは関係なく人の見ていないところでこそコツコツと善い事をする。

 

草や木が上に伸びていくためには、大地にしっかりと根を下ろさなければなりません。どんな場所にでも力強く黄色い花を咲かせるタンポポの花もその根は深くしっかりと大地に根ざしています。天高く伸びる大木もまた、大地にしっかりと根を生やしています。

褒めることも叱ることも自分を今評価してくれている誰かが見てくれていることを前提としています。しかし、このように人の見えないところにこそ根を生やすという生き方を教えることこそ今の時代に必要な教育であると思われます。

 

自分の祖父母の時代、子ども達は「誰かが見ていなくても、おひさまや、ご先祖さまはちゃんとみていらっしゃる」こう言われて子どもたちは育ってきました。今の時代、子どもの教育にはこの思想が欠けているのではないでしょうか?誰かが見ていなくても、ちゃんと自分を見てくれている存在がある、そして大きな優しさで護ってくれている存在がある。このことを教えることこそ大切な教育であり、宗教教育ではないでしょうか。

妙國寺のお斎(おとき) 

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5月8日 月例鬼子母神祈祷祭 が執り行われました。

当山では、お寺の行事があるたびに、法要の後に来られた方にお斎(おとき)とよばれる昼食がふるまわれます。法要が始まる何時間も前から妙國寺台所係の方々が心をこめて作ってくださいます。おしながきは 筑前煮とも呼ばれます、ゴボウやシイタケ、人参、さといもなどを煮込んだ「がめ煮」や大豆をすりつぶして味噌と合わせて作った大豆のコクが充分に味わえる「呉汁(ごじる)」と呼ばれます、この土地ならではの郷土料理。どちらもお寺に来られた方の健康や栄養をしっかりと考えた妙國寺台所係の方々の丹精がこもった料理です。お寺にお参りにくると、御祈願や御祈祷、先祖供養ができるだけでなく、美味しい郷土料理も味わえるんですよhappy01!!是非一度食べにいらしてくださいね。

 

 5月8日は土曜日だったので、いつもお手伝いしてくださる檀信徒の方のお孫さん、小学生のあやちゃんともえちゃんが、エプロンと三角布を装着し、参拝された方のおときの配膳や片づけ、掃除などをお手伝いしてくれました。二人ともえらいhappy02!!

ありがとう~shine!!