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ぼくを探しに

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シルヴァスタイン作の「ぼくを探しに」という絵本をご存知ですか?色々悩んでいた青年期、大学生の頃友人に紹介してもらって、大変感銘を受けた絵本です。

 

絵本の表紙に出てくる「少し欠けたまる」が欠けたかけらを探しにいくお話です。

 

何かが足りない それでぼくは楽しくない

足りないかけらを 探しに行く

 

ころがりながら 歌いながら カンカン照りの日も雨の日も雪の日も・・・

からだが欠けている分、あまり速くはころがれません、ミミズや花や昆虫と触れ合ったりしながら愉快に野を越え海を越えて旅を続けます。

 

ある日のこと、かけらを見つけます。しかし、そのかけらは小さかったり、大きかったり、とがっていたり、ぴったりだと思っても、いつの間にか落としてしまったり壊れてしまったり・・・・穴に落ちたり、壁にぶつかったり、ムチャをしたりしながら、ようやく自分にぴったりのかけらに出会います。

 

はまったぞ ぴったりだ! やった! ばんざい!

ぼくはころがる もう すっかりまるくなったから

前よりも ずっと速くころがる こんなことは はじめてだ

 

しかし、あまりにも調子よく転がっていくので、以前のように花や昆虫たちと触れ合ったり、歌を歌う事もできなくなってしまいました。

 

なるほど つまりはそういうわけだったのか

 

そう言って転がるのをやめ、かけらをおろして一人またゆっくりところがっていきます。

 

ぼくはかけらを探してる 足りないかけらを探してる

ラッタッタ さぁ 行くぞ 足りないかけらを探しにね 

 

読んだ人がそれぞれの状況で色んな捉え方ができるこの絵本なのですが、私は、当時、この絵本を「どこかにあるはずのもっと素晴らしい自分や他人とは違った個性」を追い求めて理想と現実のギャップに苦しんでいた自分自身に重なりました。

 

法華経の教えの中に「諸法実相」という言葉が出てきます。「諸法」とはあらゆる存在、「実相」とは真実のことです、あらゆる存在は、そこに存在しているそのままの姿で真実のすがたをあらわしたものである。言いかえれば、あらゆる存在はそのままで、最高の価値を持つということです。

 

自分らしさや個性ばかりが重要視され、ただただ人と違う言動や行動を行った人ばかりがもてはやされて、「自分らしさ」や「まだ見ぬ自分の可能性」を追い求めて苦しみが深くなってしまうのが社会の現状のように思えます。

 

人は人、自分は自分、そうは言っても試行錯誤しながら、かけらを探しながら人生は続いていくものです。

 

どうせなら、踊らされず、素晴らしいそのままの自分に自信を持ちながら歩んでいこうではありませんか?

 

もんじゅのちえ

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文殊菩薩という菩薩をご存じですか?「三人寄れば文殊の智慧」とも言われますように仏教では智慧を司る菩薩として大変有名な菩薩で、法華経のお経の中にも登場されています。こんなお話があります。

むかしむかし、インドには、悪人ばかりが住んでいる国がありました。この国の人々は、いつも悪い事をしたり、乱暴をしたりしました。その事を知った目連(もくれん)というお坊さんが、仏さまにお願いしました。
「仏さま、わたくしを、あの悪い人たちが住む国へ行かせて下さい。何とかして、あの人たちを良い人間にしてやりたいのです」
 すると仏さまは、にっこり笑って、
「それは良い行いです。大変でしょうが、頑張りなさい」
と、悪い人の国へ行く事を許してくれました。

目連はさっそく悪い人の国へ行くと、人々に色々な話をして、良い人間になる為のお説教をしました。
「人間は悪い事をすると、その時は良くても後で必ず恐ろしい罰を受ける。そして死んでからも、必ず地獄へ落ちて苦しむのです。だから悪い事を止めて、良い事をしなさい。乱暴は止めて、困っている人を助けるのです」
ところがいくら目連がお説教をしても、誰一人話を聞こうとはしないのです。それどころか、

「はん、偉そうな事を言っても無駄だ。後でどうなるかよりも今が良ければいいのだ。お前なんか、帰れ、帰れ」
と、石を投げつけたりしました。目連は仕方なく、自分の国に帰ってしまいました。

さてこの話を聞いた、舎利弗(しゃりほつ)というお坊さんは、
「悪い人たちを導くには、やさしく言っても駄目だ。もっと、厳しくしないと」
と、仏さまの許しを受けて、悪い人の国へとやって来ました。
「お前たち、よく聞け!!今すぐ悪い事を止めないと、地獄で永遠に苦しむ事になるぞ! 助かりたければ、おれの言う事を聞くんだ!!」
けれどもこの国の人たちは、「何を偉そうに言っていやがる、帰れ帰れ!!」やはり舎利弗を嫌って追い返したのです。
その後も、五百人ものお坊さんが次々と出かけて行きましたが、誰一人成功した者はいませんでした。

そこで仏さまは、文珠(もんじゅ)という知恵のあるお坊さんを選んで、その悪い人の国へ行かせてみました。
悪い人の国へ着いた文殊は他のお坊さんたちとは違って、この悪い国と悪い人たちを褒めたのです。
「ここは、何と良い国だろう。そしてここに住む人々は、何と立派な人たちだろう。こんな良い所へ来られて、わたしは実に幸せだ」
いくら悪い人たちでも、褒められればうれしいものです。そこで人々は、自然と文珠の周りに集まって来ました。中には文殊に、ごちそうを出す者さえいました。
「このお坊さんは、とても偉い人だ。おれたちの事をわかってくれる」
「そうだ。今までのお坊さんは、おれたちを見下していたが、この人はおれたちを理解してくれている」
文殊は、みんなから尊敬されました。そこで文珠は、
「わたしの先生である仏さまは、わたしなどとは比べ物にならないほど、それはそれは立派なお方ですよ。
 その仏さまの教えを受ければ、あなた方はもっと幸せになる事が出来るのですよ」
と、言ったのです。すると、みんなは、
「それならぜひ、仏さまの教えを受けさせてくれ」
「おれもだ。おれも」
と、仏さまの教えを受ける事にしたのです。それを知った仏さまは、文殊の知恵を大いに褒めて、
「よくやりましたね。人を導くのは、とても難しい事です。ただ人に考えを押しつけるのではなく、その人の考えを理解し、その人とうち解ける事が大切なのです。お前はその事に、よく気がつきました。お前のおかげで、悪い国の人たちも救われるでしょう」
と、うれしそうに言いました。

 

この時から、優れた考えや知恵の事を『文殊の知恵』と言う様になったのです。

 

物事を教えたり議論したりするとき、私達はどうしても自分自身の持ってる知識や経験で物事を判断したり、喋ったりしてしまいがちですが、その人その人が歩んできた人生や考え、環境に寄り添い、理解しながら接するということはとっても大切なことですね。

ウルトラ5つの誓い

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一歳五カ月の長男がだんだんと荒くなってきました・・・・。やはり男の子ですね、テーブルには必ず昇りたがります・・。目を離して静かにしてると思ったら必ず何かイタズラしてます・・・。落ちてるもの何でも食べようとします・・この前は、何かの幼虫を拾って、じーっと見つめて・・・それから口に・・・。寸でのところで止めましたが・・・。

そんな長男、最近、ウルトラマンに熱中しております、「ウルトラマン」男の子なら誰しもが小さいころに憧れるヒーローですね。父親の世代、いやもう今ではおじいちゃんたちの世代から今の子どもたちへと受け継がれているM78星雲 光の国からやってきた宇宙人です。

ウルトラマンが地球上でウルトラマンの姿で活動できる時間は三分です、三分に近づくと胸のタイマーがピコーンピコーンとなりだします。三分間しかあの姿で地球では活動できないんですね、3分間で怪獣と戦うんです。その、ウルトラマンのシリーズの中、「帰ってきたウルトラマン」の最終回にウルトラマンが地球を去る際に自分を慕う人間の子供に伝えた訓示のようなものがあり、これは「ウルトラ5つの誓い」と呼ばれてます。

・一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと

・二つ、天気のいい日に布団を干すこと

・三つ、道を歩く時には車に気をつけること

・四つ、他人の力を頼りにしないこと

・五つ、土の上で裸足で走り回って遊ぶこと

なんか、子どものお約束というような感じなのですが、実はこの四つ目の「他人の力をたよりにしない」はウルトラマンのお話の中で、とても大切なテーマなんです。

ウルトラマンは強い、必ず怪獣を倒して護ってくれます。しかし、ウルトラマンが助けてくれることに慣れてしまった人間が「あぁ、怪獣か、どうせウルトラマンがきてくれるから大丈夫だ・・・」と完全にウルトラマンを頼りにしてしまったなら、いずれは自分自身の手でどうにかしようとしなくなってしまうんですね。

ウルトラマンだって、三分間自分の命をかけて人間のために怪獣と闘っています。ウルトラマンの力を頼りにするのではなく、人間も怪獣と命をかけて精一杯戦った、その時にこそウルトラマンは最大のパワーを発揮して人間と一緒に地球を守るために戦うんです。

 「他人の力を頼りにしないこと」

私達の生活の中でも言えますね、他人の力を完全にあてにしてしまって、それで失敗してしまったこと・・・皆様にも心当たりがあるのではないでしょうか?

このことは実は信仰の中にも言えることなんです。如来壽量品第十六というお経の中で、お釈迦様は「私(お釈迦さま)は滅することなくいつでも、いつの時代もあなたたちの傍にいるのだ。私は方便によって姿を隠したり、現したりしているんだよ。だから、本心から私を敬い、信じるならば、貴方達がせいいっぱい私に、救いを求めたのならば、たとえこの世界のいずこであろうともそこへ行って無上の教えである法華経を説きましょう、いつでもあなたがたを救い、導きましょう」こういう風に仰っています。

「南無」という言葉は心からおまかせするという意味です、「妙法蓮華経」妙法蓮華経というお経を示します、妙法蓮華経というお釈迦様の教え、お言葉を信じて、一体になるという信仰があってこそ、仏様は私たちを救ってくださるのです。ただただ、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えれば救われる、そういうわけではないんです。きちんとそこには、しっかりとした私たちの心のカタチが必要なんです。そうすれば必ず、お釈迦様は私達を仏に導くために助けてくださいます。

じゃがいも収穫

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境内の花壇にてかねてから植えていた「じゃがいも」を収穫しましたhappy01!!

虫も寄りついていなかった荒れていた花壇に種いもを植えて、それから徐々に芽を出して、改めて植物の強さに感激しました!!

では様々な虫が寄りついて大変ですが・・・・(笑)

大なり小なりとたくさんのじゃがいもが収穫でしました!!さて、次は何に挑戦しようか・・・・。

でんでんむし

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もう、気がつくとGWも終了し、いよいよムシムシする梅雨の時期に突入します。こないだ、雨上がりに道を散歩しますと、道を這っているいる小さな物体、なんだろうと、子どもが不思議そうに、近寄ってみますと、「あ~かたつむりだ!!」と嬉しそうに声をあげました。

 背中に重そうな荷物を持ちながら道をゆっくり這っているかたつむりを二人で眺めていますと、

「ごんぎつね」や「てぶくろをかいに」の作者、新見南吉さんのお話、「でんでんむしのかなしみ」というお話を思い出しました。

あるところに、一匹の でんでんむしが ありました。ある日、そのでんでんむしは、大変な事に気がつきました。

 「私は今迄うっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には、悲しみがいっぱいつまっているではないか、この悲しみはいったいどうしたらよいでしょう・・・。」

でんでんむしは、お友達のでんでんむしの所にやっていきました。

 「私は、もう生きてはいられません」

と、その でんでんむしは、お友達に言いました。

「何ですか?」

と、お友達のでんでんむしは聞きました。

「私は何という不幸せなものでしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱいつまっているのです。」

と、始めのでんでんむしが話しました。すると、お友達のでんでんむしは言いました。

「あなたばかりではありません、私の背中にも、悲しみはいっぱいです。」

それじゃ、しかたないと思って、初めのでんでんむしは、別のお友達の所に行きました」

すると、そのお友達は言いました。

「あなたばかりじゃ ありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」

そこで、始めのでんでんむしは、また別の、お友達の所へ行きました。

こうして、お友達を順々に訪ねて行きましたが、どの友達も、同じことを言うのでありました。とうとう、始めのでんでんむしは、気がつきました。

「悲しみは、誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は、私の悲しみを、こらえていかなきゃならない。」

そして、このでんでんむしは、もう、嘆くのをやめたのであります。

 

悲しみと言いますものは苦しみから生まれ出るものです。仏教では「生きる、老いる、病になる、死んでしまう」のそれぞれ、四つの苦しみに愛別離苦(あいべつりく)といいます、愛する者と別れてしまう苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)といいます、 怨み憎んでいる者に会ってしまう苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)といいます、求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といいます、あらゆる精神的な苦しみ、この四つを合わせて、四苦八苦と言います。

 

仏教はこれらの苦しみと向き合って悲しみを乗り越えていくための教えなのです。

 

如来寿量品第十六の中に「常に悲観を抱いて心遂に醒悟す」という一文が出てきます。

 悲しみを常に大事に取っておくことではなくて、悲しみに打ちのめされることによって、どうにもならない切羽に立って始めて、その悲しみの底から迷いの眼が開かれてくる。という意味です。

私達は何か苦しいことや悲しい事が起こると、「自分だけ何でこんな目にあわなければ」「なんで自分だけ・・・」と思いがちですが、そうではなく、実は、誰しもが同じような悩みや悲しみを抱えているんですね。だからこそ、その悲しみと真から向き合う事によって、受け入れることによって道は開かれてくるのです。

その悲しみは無駄なものではない、必ず自分の糧となるんだよ・・・仏さまはそうおっしゃっています。

 

4月28日 写経会

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4月28日 19:00~ 毎月28日に行われております、「仏教塾」で写経会が行われました。

日蓮宗熊本青年会で毎年開催されている写経会の写経セットを使用し、法華経から1000文字ずつ写経していただきます。

写経をすると功徳がある」とよくいいます、この功徳とはどういうことでしょうか?今日、文明社会は利便性を追求し、さらなる進歩を重ねる一方で、社会的なひずみが家庭内にも、生活環境の中にも、様々な面で出てきています。あまりにもそのひずみに囚われて、煩わしいことをくよくよと考えていたのでは心身共に病んでしまいます。こんなときに、雑念を捨てて、何事にもとらわれないで、静かな環境の中、無心になって写経をする中で、何かをつかむ。その力によってどんな難問にも、うまく対処できるかもしれません。煩わしい執着から解放されて心にゆとりが生じて妙案がうかぶかもしれません。この執着から心が解き放たれることこそ、仏教の教えの基本であり、写経の「功徳」なのです。 「日蓮宗新聞社発行 妙法蓮華経写経セット 写経のてびき」より

写経は字がきれいだからとか下手だからとかではなく、いかに写経をする時間に自分自身と向き合って、お釈迦様の教えであるお経とむきあえたかです。お気軽にどなたでも体験することができます。いつでもお問い合わせください。

寺のハーブ

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昨年の夏に子ども遊んでいまして、高い高いをしていました。「そ~れ、そ~れ」と調子にのってさらに高く高く持ち上げていましたら

「ピキッ・・」っと・・・腰に鋭い痛みが・・・。

それ以来、お盆の忙しい時期もなんとか整骨院に通ってごまかしていましたが、徐々に痛みがごまかしきれなくなってしまい・・・。

ついに整形外科に通ってはみたものの全く改善せず、「この際治るならなんでもやってみよう」とお檀家さんから「歩いたらいいですよ」と聞いたらウォーキングしてみたり、「この体操がいいですよ」と言われたら体操してみたり、とある御宅で「私は若いころ腰を悪くして園芸を始めたら徐々に良くなりました」と言われたのをきっかけにふと、「やってみるか」と思いつきで始めたガーデニング。何も考えぬままに、「流行ってるみたいだから、ハーブだな!!」と苗やら土やら肥料やらナフコから買い揃えてお寺の裏の花壇にて始めたのが昨年の秋くらいです。ラベンダー系やミント系のものやローズゼラニウムやローズマリーやカモミールやレモングラスなどなど、春を迎えて色んなハーブが大きく成長し、ラベンダーもついに花を咲かせ始めました!

初めてのガーデニングですが、結構毎日、成長を見ていくのが楽しくて、草むしりや水やりなどまめにやっています。この花壇は前は色んな植物が植えてあったので、想定外のものが気付いたら芽をだしていることが結構あります。中でも水仙はとってもとっても・・・・・中で増殖しているのか、色んなとこから・・・、綺麗に育ったハーブの真横とかに限って芽をだします・・・・。ほんとこの強さは「見習わないといけないなぁ・・・・」と思うばかりです。

もうひとつ花壇があいていたので先月子どもと一緒に種イモを植えました、芽をだすかなと心配してましたが、出てきた芽に親子で大喜びです。梅雨前には収穫できるようなので楽しみにしています!

せっかくなので、ハーブ料理かハーブ茶でも勉強してやってみようかなと思う今日この頃です。 

 

4月8日 花まつり 

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4月8日はお釈迦様の誕生日です。

よく、「花まつり」ってなんですか?と聞かれます。「お釈迦様の誕生日ですよ」と答えますと「へ~、そうだったんですか~」と・・・。

仏教の創始者の誕生日なのに、これだけ仏教が広まっている日本で、イエス・キリストの誕生日をお祝いするクリスマスに比べて残念ながら、あまり認識されていません・・・。

やはり、あの、ケーキ・プレゼント・イルミネーションという三種の神器的な華やかさが足りないのでしょうか・・・。さらに冬という抒情的に何かロマンティックさを燻ぶる季節柄もよいのでしょうか・・・?

負けずにしっかりと「花まつり」「お釈迦さまの誕生日」発信していきたいと思います!

当山でも本年、4月8日「花まつり、月例鬼子母神祭」が執り行われました。お釈迦様がお生まれになった時に、七歩歩かれて右手を天に、左手を大地に指して「天上天下唯我独尊」と仰られたことは有名なお話ですが、その時に竜王がお釈迦様の誕生を喜び、甘露を注いで沐浴させたという伝説にちなんで、「花まつり」ではお釈迦様の誕生されたお姿を仏像にし、お詣りしていだたいて甘茶をかけてお祝いを致します。

もちろん、甘茶はかけていただくだけでなく、お飲みになっても結構ですし、お参りされた方々、お持ち帰りいただけます。甘茶には抗アレルギー作用があったり、外にまくと虫よけににもなります。

一年に一回の行事です。どなたでもご参加できます。どうぞ、一緒に「はなまつり」お釈迦様の誕生日を盛り上げてまいりましょう!

「花まつり」の行事は仏教全体の行事でして、荒尾市には様々な宗派のお坊さん達が集まって「荒尾市仏教会」という会があります。今年も「荒尾シティモール」で仏教会の青年部で「花まつり」の行事を行いました。

オカリナのコンサートや、甘茶かけや甘茶や花の種や風船の無料配布、輪投げ、ペンシルバルーン、綿菓子の無料配布があり、たくさんの方々に「花まつり」に参加いただきました。

 

雪の結晶

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2月に入り寒波が日本中を襲い、昨年に続いてこの南の国、九州熊本でも雪が降り、珍しく雪がつもりました。大人でしたら、「寒いから外にでるのはやめよう・・・」となりますが、子どもは「雪で遊ぶ、雪だるまつくる!!」と元気いっぱいです。何十年かぶりに童心にかえって子どもと雪だるまをつくりました。少々不格好ですが、赤いバケツを頭にのせて、なんとかかたちになりました。

さて、しんしんと降ってくる雪空を見上げますと、雪は一様に私達に降り注いでいるように見えます。しかし、その雪の中の雪の結晶というものは一つ一つが違った形をしているということをご存知ですか?雪の結晶の研究者である中谷宇吉郎さんは「雪は天から送られた手紙である。そしてその文句は結晶の形、及び模様という暗号でかかれている」という言葉を残されています。

私達人間もひとくくりにすれば「霊長類ヒト化ヒト」であり、人間です。しかし、誰一人同じということはなく一人ひとりがそれぞれの個性を持ち生きています。

人は生まれ、そして死にゆく、一見はかなく、むなしく見えますが、仏教では肉体の滅びがすべての終焉であるとは考えられてはおりません。私達の命は仏様の世界から、父と母との因縁によってこの世界に現れ出て、まるで雪の結晶のように一人一人が違った特別な何らかの役割を与えられて、仏の子としてこの娑婆世界へ使わされていずれは仏様の世界へと帰っていくのです。

雪の中にある結晶の形、及び模様は暗号である。ならば私達が生まれながらに持つ個性や特性は、そのままで、ありのままで自分に自信を持って、与えられた命を一生懸命に生きなさい、そしてその役目を果たし終えたのなら、お疲れ様、よく頑張ったね、自信をもって私の元へと戻っておいでね。という仏さまからのメッセージではないでしょうか?

除災・招福 節分会星祭会

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昨日は「除災・招福 節分会星祭会」へのご参拝誠にご苦労さまでした。雪が吹雪く大変寒い中にたくさんのご参拝をいただきました。

さて、本来「節分」とは、各季節の始まりの日(立春、立夏、立秋、立冬)の前の日という意味があります。今日では、一般に二月三日立春の前日を「節分」としてさすようになっていますが古来より日本では一年を二十四節記で分けた始まりの日が「立春」であり、節分は一年の締めくくりの日と考えられていました。そして、このしめくくりとして来る年に邪気(鬼)を追い払うために「豆まき」の行事が行われてきました。風水や四柱推命などの占も節分を一年の最後として、立春を持って次の年の運勢と考えられているのが多いようです。

節分豆まき

節分とは「節」を「分」けると書きます。日本の年中行事の中で、「節句」などで見られるように、この「節」という言葉が大変重要になっています。「節」とは「一年を時候の変わり目で区切った区分、季節や生活の区切りとなる祝日」という意味があります。私たちの生活にとって、それまでとは違って新しく区切りをつけることは大変重要なことです。

例えば、植物、竹を見てみますと竹は一定期間成長すると、節ができ、そしてまた成長して節ができる。節と節間を積み上げながら上へ上へと大きく成長していきます。節が全体の調和をとっているからこそ、高く伸びても倒れないのでしょう。

考えてみますとこれは人間と同じです。人も生まれて年をとるにつれて様々な節目を迎えます。節目があるからこそ人生は単調なものではなく、人生にめりはりがついて、その人なりの味わい深いものになったり、また新しい気分で始めることができるのであり、そうすることで人生の調和がとれているのです。そうやって昔から日本人は季節の変わり目を自分自身の日常生活の中にうまく取り入れてきました。

良き星回りの方もそうではなかったという方も、お授けいたしました、星祭守(おまもり)を持ち、新しい節目として新たな気分で一年を始めてまいりましょう。