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さくらばな

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今年も奇麗に咲き誇った桜の花も、もう熊本では徐々に散り始めています。ぱっと見事に咲き誇りぱっと見事に散りゆく桜の花、昔から日本人はそんな桜の花の美しさに憧れを抱いていたのでしょうか。昔から春になると桜を眺めながらの花見の宴会が行われてきました。かくいう私も学生時代、よく満開の桜の木の下仲間たちとどんちゃん騒ぎをしたものです。

春は出会いと別れの季節でもあります。そんな春の代名詞ともいえる「桜」、満開に咲いて、ひらりひらりと散りゆく姿をじっと眺めると、だれしもが青春の淡い思い出を彷彿させ、過ぎ去った時間に暫くの間酔いしれるのでしょう。

皆様よくご存じの、芸術家岡本太郎さんのお母さん、歌人「岡本かの子」さんの桜を詠んだ短歌を紹介します。

 

桜ばな いのち一ぱいに 咲くからに 生命(いのち)をかけて わが眺めたり

 

桜の花はまだ花弁が白いうちは散ることはなく、充分にその花弁を染めてからひらひらと舞い落ちるそうです。いのち一ぱいに咲くそんな桜だからこそ命をかけて眺める価値がある。

そのように気持ちで、咲き散る桜を見ると、「あなたはせっかくいただいた、その命を一日一日無駄にせず、いつか奇麗な色がつき、咲き散れる日がくるように毎日を一生懸命に生きていますか?」桜の木がそう語りかけてくるようです。

日蓮大聖人は法華経をまさしくご自分のいのちをかけて信仰された方です。当時、御自分の命を脅かす様々な迫害に遭われても「この法華経こそがお釈迦様が説かれた最高の教えである」と御自分の信念を貫かれました。生命をかけて守られた法華経の教えを受け継ぐ私達もまた生涯をかけて、その生命を感じながら信仰していかねばならない、そう思うのです。

❀花まつり❀とは?

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仏教とは「仏の説かれた教え」という意味であり、この仏とは世界三大宗教の一つである仏教の開祖であるお釈迦さまを意味します。4月8日は、そのお釈迦さまの誕生日です。お釈迦さまの本名はゴーダマ・シッダッタといいます。「お釈迦さま」という呼び名は、その出身である釈迦族からとられたものです。

 お釈迦さまは天竺國(現在のインド)の北部(現在ネパール付近)を治めていた釈迦族の王さま・浄飯王と、その妃・摩耶夫人の間に王子として誕生しました。その誕生にはこのようなお話があります。

 摩耶夫人はある夜、六本の牙をもつ美しい白象が右わきから体に入ってきた夢を見ました。そこで、この夢の意味をバラモン(最高階級で僧侶や祭司ら)に占ってもらうと、「お妃さまは男の子をご懐妊になられました。この王子さまは必ずや釈迦族に繁栄をもたらすでしょう、もし出家しなければ世界を支配するという転輪聖王に、もし出家すれば真理を体得して偉大なるブッダとなられる方でございます。」との予言をうけました。

そして、10ヶ月後の春、摩耶夫人は出産のために里帰りをすることになり、途中休息で立ち寄った真紅の無憂樹の花が咲き乱れる‘ルンビニーの園’で沐浴を終えて林の中を散歩していました。その時、摩耶夫人の身体は黄金色に輝きはじめ、無憂樹の枝を手折ろうと、右手を上方に伸ばした時に、突然その右わきから一人の男の子が産まれ、産まれ出た王子を蓮の花がしっかりと受け止めました。そして、王子は自ら七歩歩み、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と高らかに降誕宣言をしたと伝えられています。

産道を経ずに生まれたということは、凡人とは違った偉大なる聖人を意味し、七歩歩んだ意味は私達衆生が六道という「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界」を流転し続ける輪廻を超えて、仏として産まれてきたことを指します。そして「天上天下唯我独尊」とは「天にも地にもただ我ひとり尊い、我にまさるほとけなし」という意味で、のちに王子が「仏陀」となって、この世の人々を救済されることの予告的な宣言なのです。そして、お釈迦さまの誕生を喜んだ竜王が、甘露を注いで沐浴させたという伝説もあります。

4月8日、お釈迦さまの誕生日には、ルンビニーの花園に見たてて花で飾った「花御堂」に天と地を指さしたお釈迦様の誕生仏を安置して法要を行い、甘露を産湯としたという故事にならい、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけて一般的に「花まつり」という行事としてお祝いするのです。

当山では4月8日 11:00~ 

「花まつり」を「月例鬼子母祭」とともに執り行います。参拝された方にも誕生物に甘茶を注いでお祝いをしていただき、来られた方におみやげの甘茶も用意しておりますので、どうぞお気軽にご参拝ください。

18日から一週間は春季彼岸の期間です。

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暑さ寒さも彼岸までとは昔の人はよくいったもので、彼岸に近づくにつれ暖かい日、寒の戻りを繰り返しながらようやく本格的に春の訪れを感じるようになってまいりました。

さて、春の彼岸の期間は太陽が真東から昇って真西に沈んでいく昼と夜の時間がちょうど同じになる彼岸の中日である春分の日を中心に一週間の期間と定められています。

 こうした、どっちにも偏らないで中間の状態である、という自然現象とお釈迦様の説かれた「中道」の思想が結びついてお彼岸は仏教行事となったようです。さて、お釈迦さまが説かれました「中道」という思想はいったいどん思想なのでしょうか?

私達は時折偏ったものの見方をしてしまいがちです。正しいとか、悪いとか、好きだとか嫌いとか。気をつけていても、いろんな情報や情念によって自分の立ち位置が、あちらへ傾いたりこちらへ傾いたりと変化しがちです。そのような生き方をしていると苦しみというのは増す一方なのですから、どちらかに傾いてしまうようなこだわりを捨て、大きな目線で物事をとらえて、ゆったりとした道を歩みなさいよと、お釈迦様は苦行と楽行という両極端な道を避けて、どちらにも傾かない「中道」という道を歩むことで「仏陀」になられたことを示されました。

どちらにも傾かない思想。言ってみれば簡単ですが、実際行動するとなると難しい・・。しかし、大丈夫です。仏様は私達にきちんと「中道」という道を歩み安くしてくださっています。皆様いつもお参りされるように合掌してみてください。どうですか?その合掌は身体の丁度真ん中にきませんか?人間の右手というのは清浄の手、左手というのは不浄の手を表します。人間は清濁兼ね備えた存在でして、どちらかに傾いてしまうと、例え清いほうでも巡り巡って人間のエゴイズムを生んでしまうのです。なので、その二つ、清濁合わせて合掌し、それが身体の中心にくることによって、どちらにも傾かず、お釈迦さまのように、「中道」の生き方をしましょう。と仏様は合掌に示されているんです。

 彼岸は先祖供養の期間でもありますが、自分自身を見つめなおす大事な仏道修行の時期でもあるわけです。心沈めて合掌して、「自分はどちらかに傾いてないだろうか?」問いかけながら「中道」の思想で心穏やかにすごしたいものです。

壱百年の歩み

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当山妙國寺の100周年記念事業として行った

「大乗山妙國寺壱百年の歩み ~妙國寺創立100周年を迎えて~

の製本が終了致しました。

文章をお願いした総代長 上野正見様 総代 早起圭彦様 前総代 酒田義春様、製本に携わり協力してくださった檀信徒の方々、ありがとうございました。この本は21日の春季彼岸施餓鬼法要にて配布する予定です。

 明治42年に開基上人がこの土地に満田教会として今日の妙國寺を開設されてから100年。お寺の歴史を紐解いていくということは、その時代の人たちの想いを知ることでもありました。小さな教会所として開設され、寺号を受けたのが昭和19年、この地域と人の移り変わりとともに、第二次世界大戦や炭鉱の隆盛と衰退、昭和38年11月9日に起こった458名の死者を出した三井三池炭鉱粉塵爆発事故、歴史の大きな事件があり、お寺に訪れる人々の喜びや悲しみ、そして願いを受け止めながら、壱百年の間、この妙國寺はたくさんの人々を迎えて、そしてたくさんの人々を見送ってきました。

「いつでも変わらずそこにいる。」

「そして、笑顔になれるほとけさまの教えがそこにはある。」

そんなお寺として、いつまでも愛されるお寺でありますよう尽力して参ります。

皆様これからも共に歩んでまいりましょう。

笑顔の効能

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最近、もうすぐ9カ月になる娘が早くも、夜遊びするようになってしまいまして・・・。

深夜みんなが寝静まった頃、ゴソゴソという物音で目を覚ますと布団から這い出しておもちゃを取り出して遊ぼうとしている・・・・。

「何しよっと~」と言うと、したり顔でにやぁぁぁぁ~と笑う。

「もう寝るよ~」と言うと、にたぁぁ~と笑いながら首をブンブンブン。

その笑顔に負けて「全く、しょうがないなぁ~」

はぁ~、笑顔に負けてしまった・・・。と思いながら一緒に遊んで一緒に笑うとその時は眠気も吹き飛びますが結局寝不足・・・。子どもの笑顔というのは不思議なものです。

 ついこの前ショッピングセンターに買物に行った時の話です、レジの横のベンチに独りで寂しそうに座っていたおじいちゃんのとこへ、近くに座っていた親子連れのまだよちよち歩きの男の子が近寄っていきました。そして、おじいちゃんに向かってニコっと笑ったんです。そうすると、そのおじいちゃんも自然にニコっと笑い、男の子は手を振り、おじいちゃんも手を振る。ただそれだけのことだったのですが、独り寂しそうに座っていたおじいちゃんは、幸せそうな顔をして「バイバ~イ」と男の子に手を振りながら帰っていかれました。

 子どもの笑顔は見ている私たちを幸せにしてくれます。元気がない時は元気をくれたり、イライラしている心を和ませてくれたり、心と体の疲れも子どもの笑顔を見るとどこかへ吹き飛んでしまいます。この子のために頑張ろうと思うなら、人は辛いことも耐えたりすることもできるんですね。

 しかしですよ、よくよく考えてみてください。私達大人は生まれながら大人という訳ではないんですね。もちろん、子どもの頃があったわけでして、私達が子どもから幸せな気持ちをもらってるのと同じように自分も誰かを幸せな気持ちにしてきたわけなのです。ということを考えると、必ずどんな人にも、人を幸せにする力というのは平等にあるはずなのです。

 法華経の中にこんなお話が出てきます。

 ある人が親友の家に行って、酒に酔い潰れて寝てしまいました。親友はどうしても行かなければならない用事があり、酔いつぶれて寝込んでしまった友人の衣服の裏に、値のつけようのない宝珠を縫い付けて出かけたのです。ところが、その人は酔いつぶれて寝込んでしまっていたから、親友のそうした行動には全く気がつかなかったのです。彼はその後目覚めて起き上がると、あちこち巡り、他国に至り、衣食のためにたいへん苦労し、生活も困窮していました、「まぁ、自分の生活はこんなものだろう。」と満足していました。その後、親友は彼と再会し、彼の様子を見てこう語ったのです。

 「友よ、君はどうして衣食のためにこのようなひどい状態になってしまったのだ。私は昔、君が安楽になれるように、あらゆる欲求を満たしてあげようと、値のつけようもない立派な宝珠を衣服の裏に縫い付けていたではないか。それは現に今もあるんだよ。それなのに、君はそれを知らないで、あいかわらず苦労して憂い悩んでいるが、それはとても愚かなことだ。君はこの宝珠を必要なものと換えることができるんだから、そうしなさい。そうすれば、常に想い通りになり、何不自由なく過ごすことができるのだから。」

 このお話は、五百人弟子授記品というお経の中で、お釈迦様の五百人のお弟子たちがお釈迦様から「授記」といいまして、あなたは将来仏になれるんだよという証明を受け、お弟子達は「値のつけようもない立派な宝珠」つまり、自分もお釈迦さまと同じように仏になれるんだという可能性を自分らも知らない間にお釈迦様から頂いていたのか。ということに気付いた喜びを例え話にしたものなのです。この仏になれる可能性のことは、「仏性」と呼びます。

 ここで出てくる親友はお釈迦様、そして酒に酔い潰れた男は五百人の弟子であり、同時に現代、五百人の弟子たちと同じように、こうしてお釈迦様の教えに触れている私達のことでもあるのです。私達は気付かないけれども、人間として生まれてきたその時からお釈迦さまから「値のつけようもない立派な宝珠」、つまり仏性を頂いて生まれてきているのです。

 「仏性」だれしも生まれながらに仏になる可能性を皆持って生まれてきたのだよ、と一言で言いましても、何か漠然としていてわかりにくいですね。簡単に言いますと、仏様というのはどんな人にも手を差し伸べてその人を幸せにする力を持たれています。 

 子どもの頃に持っていた私たちに平等に与えられたどんな人をも誰であろうと幸せにする笑顔の力、この笑顔の力こそが仏さまから私達が与えられた「値のつけようもない立派な宝珠」であり、「仏性」であると思うのです。

 そうは言っても、子どもの頃の笑顔と今の自分の笑顔は違うしな・・・・と思われる方もいらっしゃるでしょう、しかし、笑顔というのは見ている人も自分も元気に幸せにさせる効能があるんです。辛い時や腹が立った時、どうぞ何も考えず童心に戻って笑ってみてください。笑うというのは医学的に精神的にも肉体的にも良い効果が働くそうです。

 その笑顔の中には必ず仏様から頂いた立派な宝珠があり、傍には仏様がいらっしゃるはずです。

 お釈迦様は人が人を幸せにする力を誰もが持っていることに気づきなさいよ。と常に説かれておられるのです。

 自分には仏様から頂いた「仏性」が備わっているんだと胸を張って毎日を笑顔で自分の仏性を呼び起こしてそして、自分が笑顔になることによって相手も笑顔にして相手の「仏性」も呼び覚まして安穏に毎日を楽しく生きていきましょう。

山口県鳴滝山龍泉寺 節分星祭り 

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先日2月3日に山口県豊浦の龍泉寺にて 節分星祭りが執り行われ、住職と祈祷会に出仕してきました。

ここ龍泉寺は 日本最大稲荷の一つ 岡山県 最上稲荷山 妙教寺の奥の院 龍王山にある龍泉寺の流れをくむ由緒あるお寺で、実は住職の故郷でもあります。龍泉寺は妙国寺住職の兄が住職をされており、私も小さいころから祖父のお墓まいりを兼ねて何度も遊びに行ったものです。

鳴滝山 龍泉寺にはその名の通り修行の為のうたせ滝が境内にあります。お寺自体も大変静かな山の中にあり、参道を通り、滝の前まで来ると大変神秘的な気持ちになります。

川棚温泉も近くにありますので、お近くに来られた際は是非お参りください。

 

数珠のおはなし

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     菊房数珠         装束数珠

先日、月回向に言った時、とある檀家さんが、 

「つい先日買った数珠がもう切れてしまいました、何か悪いことが起こるのでしょうか?」と、心配気に仰っていました。 

なるほど・・。

下駄のハナオが切れたら縁起が悪いという昔ながらの言い伝えのような感じなのでしょうか・・。 考えてみると私たち僧侶としては数珠というのは毎日当たり前の様に使用していますが、普段から数珠を毎日のように使っているという方はなかなかいらっしゃらないでしょう。 

お通夜かお葬式、法事の時に使う程度でしょうか・・・今は葬祭場で数珠のレンタルもしていますし・・・。自分の数珠というのを持っていらっしゃる方も少ないのではないでしょうか?そんな貴重な存在の数珠が切れてしまったら。確かに、良い気分ではありませんよね・・・。 

 「いやいや、意外と数珠って切れたり、ほつれたりするものですよ!私なんか毎日使っているでしょう?案外そういうことってあるもので、その度に悪いことが起こっていたら、悪いことだらけになってしまいますよ!大丈夫です!それだけ熱心にお詣りをされているということですよ!仏具屋さんに持っていけば直していただけますよ。」

と、その場は笑い話に終わりましたが・・・。

 さてさて、数珠の歴史というものは実は古く、3500年以上前から存在するそうです。数珠は古来より仏様と心を通い合わせる道具として広く使用されてきました。数珠にはこんな由来があります。

 お釈迦様が霊鷲山という場所でお説教をされていたとき、ある国の王様がお釈迦さまを訪ねてきました。

「お釈迦様、自分の国は小さく、そして盗賊も多く、疫病も流行っています。そして人民は非常に苦しんでいます。なんとかならないものでしょうか?この苦しみから救われるように自分達にもできる修行を教えてください」

するとお釈迦さまは、「ではモクゲンジの実を108個通して環をつくり、これを常に体から離さずに、仏様の名前を念じなさい」

お釈迦様はこのように仰られました。そして王様は早速たくさんの数珠を作り、自分も仏様に一生懸命お祈りしてその国は平和になりました。というお話です。

 数珠には108個の珠があります。そしてどの宗派でも108個を環の形にしてものが正式とされていますが、宗派によって形も数珠を用いる意図も異なります。

何故108個かと言いますと・・、基本的な意味あいとしては、数珠とは念珠ともいいまして、元々呪文によって108の煩悩を退治するために、唱える呪文の数を勘定する目的で作られました。珠の中をつらぬいている糸は丁度仏様の心を我々の心の中に通しているのであって、それを円く輪にしてあるのは、心が円く、素直になることを意味しているのです。

 日蓮宗の数珠は大別して装束数珠と菊房数珠との二種類があります。装束数珠は僧侶が儀式で用い、菊房数珠は僧侶、檀信徒共に用います。この数珠の珠には大きい珠と小さい珠があり、大きい珠を親玉、母珠といい、お釈迦さまを意味しています。その他の108の珠を諸仏や菩薩に例え、緒留の珠で結び合わせて、仏の世界を表しています。したがって、数珠を持つというのは自分が仏の世界にいることを意味しているのです。

他の宗派、例えば浄土真宗さんも僧侶が儀式で使用する数珠と檀信徒が用いる数珠とは違いがあるようで男性用、女性用と房に違いがあるようです。

 このように数珠は宗派によって様々な意味があり、仏事には欠かせないものなのです。ただ単に、仏事のアクセサリーというわけではありません。

 以前こんなことがありました。

 ある若い女性の方が、「私は母親から数珠をもらいました。この数珠は亡くなった祖母がお詣りをする時に家族の健康を祈って使っていたもので、それを20歳になった時、母が祖母から受け継いで大事に御守りとして肌身離さず持っていました。今度は20歳になった私が受け継いで御守りとして大切にいつも鞄の中にいれて持ち歩いています」と、受け継がれてきた数珠を見せていただきました。

 数珠には、仏教上の大切な意味とともに、誰かを大切に想う気持ちも込められているのです。数珠が受け継がれていくことによってその想いが次の世代へと受け継がれていくんです。

 最近では法事の際にも数珠を手にしない人も少なくないように見受けられるようになってきました。どうですか?せっかく縁があって仏教徒になったのです。御自分の数珠を持ち、御仏壇の前で祈りましょう!そして、それに想いをこめて次の世代へと託しませんか? 

               参考文献 「仏教 早わかり百科」 著 ひろ さちや

                                「日蓮宗のしきたりと心得」 全国日蓮宗青年会 監修

厄年とは・・・・。 

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一月八日 正月大祈祷会 水行式)

今年は厄年に当たり、お祓いを受ける方もいらっしゃると思います。今回は厄年についてちょっとお話します。

まず、厄年は数え年で計算します。この数え年というのは、生まれた時を一歳として、元日が来るたびに一歳プラスするという数え方です。ですから、元日から誕生日前日までの数え年の計算は 満年齢プラス二 誕生日から十二月三十一日までの数え年の計算は 満年齢プラス一 をすることになります。これは仏教などの母親のお腹の中にいる時も人間は生きているという考え方により十月十日も年齢に加算されたものです。

 厄年とはもともと平安時代の陰陽道の考えに基づいて広まったもので、災難や不幸に出会う事が多いとされる男女の年齢を指します。厄年は一般的には数え年で男子が二十五歳、四十二歳、六十一歳、女子が十九歳、三十三歳、三十七歳、(六十一歳)とされています。特に男の四十二歳は「死に」、女の三十三歳は「散々」に通じるということで、一生の中でも大厄とされ、厄年の前年の前厄、厄年の後半のはね厄と合わせて前後三年間続くとされます。

 日蓮聖人は、日眼女という信徒にあてた手紙の中で、「そもそも厄というのは、たとえば人のつぎふし(関節)のようなものである。風は正面から吹けば弱く感じ、角から吹けば強く感じる。病も同じで肉より起これば治しやすいし、間接の部分から起これば治しがたい。(略)ふし(関節)の病をよく治せば寿命は長くなります」と説かれています。

確かに、厄年の頃の年齢というのは人生のつぎふし(関節)、特に大事な節目の時期と言えるでしょう。一般的に男女ともこの年齢になると、体調の面でも、精神的な面でも、または社会的役割の点でも大きな変化が出やすいようです。

さらに、厄年について日蓮聖人は、厄の年、災難を払ってくれる秘法こそ法華経である。たのもしいことである、たのもしいことである。なぜならば、法華経を持つ者はお釈迦様の子どもであるので仏をはじめ諸天善神も皆守ってくれること間違いない「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」とも仰られています。(太田左衛門尉御返事)

人は生きてく中で様々な縁によって生かされています。この縁が良いものなら問題ありません、しかし、悪いものがたまに入ってくる、厄年というのは、人生のつぎふしの時期、この大切な時期に悪い縁が入ってきたなら、大変なことになります。なので、この悪い縁を未然に防ぎ、そしてもし入って来ても大難は小難に、小難は無難にと法華経の功徳をもってお祓いするのが厄年の厄払いと言われるものなのです。                                                              

                             義専

                            参考文献 「常に悲観を懐いて」  著 星 光喩

さよなら2009年。

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とうとう今年も最終日になってしまいました、今日は大晦日。今年も残すところわずかですね。

 今年あんまり良いことがなかったという方にも、今年は良い年だったなぁ・・・。という方にも、平等に新しい年はやってきます。

 古来より日本では「正月」というのは、「正月さま」「歳神さま」と言われる、その年の福徳を司る神様を家に迎える日なのです。現在でも残っている門松飾り、しめ縄などの正月飾りは幸運を授けてくださる「正月さま」を家に迎えるにあたってのものなのです。そして、正月には、今では数え年と言いますが、皆が一緒に歳を一歳とる日であったのです。

新しい年を新しい気分で迎える。

 昔見た「有頂天ホテル」という映画の中で汚職に巻き込まれ、命を断とうとする政治家に、篠原涼子さんがこんな台詞を言っていました

 「何のために大晦日があると思うの? 年が替わればいいこともある。新年を迎えれば新しい自分になれるわ」

 この一年、ほんとついてなかった・・・来年もどうせいい年じゃないんだろうな・・・。こんな風に思う方もいらっしゃるでしょう。

 この言葉は「一夜賢者経」というお経、お釈迦様の言葉です。

 「過ぎ去れるを追うことなかれ、未だ来らざるを願うことなかれ。

過去、そは既に捨てられたり。未来、そは未だ到らざるなり。

 されば、ただ現在するところのものを、その所においてよく観察すべし。

 揺らぐことなく、動ずることなく、それを見極め、実践すべし。

 ただ、今日まさに作すべきことを熱心に作せ。

 たれが明日、死のあることを知らんや。」

                       『マッジマ・ニカーヤ』

 簡単にいえば、【過去を追うな、未来を願うな、過去は既に捨てられた、未来はまだやってこない。だから現在のことがらを、現在においてよく観察し、揺らぐことなく動ずることなく、よく見きわめて実践すべし。】ということです。

 もうあと何時間かで新しい年になります。過去や未来の不安に捕われずに、新しい気分で新しい年を、一日一日大切に歩んでいきたいものです。

 皆様、今年も一年お疲れ様でした。来年もよろしくお願い致します。 

                                      義専

                        参考文献 【 「狂い」のすすめ  著 ひろさちや】

どんぐりのおはなし。

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日々寒くなってまいりました。この季節になると、
山々も私たちに様々な顔を見せてくれます。

保育園に勤めていた頃の話です。この季節は公園に行くと、どんぐりの実や松ぼっくり、様々な色をした落ち葉集めに子ども達は夢中になります。それを持参したビニール袋に収集していく子ども達、よく、お母さん方が「保育園で着た洋服を洗濯したらポケットに入っていたんでしょうね、洗濯機の中がどんぐりだらけになりました~(笑)」と仰っていました。

そんなある日、私のクラスの三歳のSちゃんという女の子が滑り台の下で集めてきたドングリの実で遊んでいました。すると、「先生ちょっと来てください」と保育士の先生の声、よく見ると、その女の子を抱き抱えて一生懸命、鼻の穴をのぞいています。

「どうしたんですか?」「ドングリの実を鼻の穴に入れてしまったみたいなんです・・・」

これは一大事です。良く見ると小さいどんぐり一つ、綺麗に小さいの鼻の穴にジャストフィットしており、しかも、御丁寧にドングリの実の頭から鼻の穴に入れてしまったようで、丸くなっているドングリのお尻はツルツルすべってなかなか取り出すことができません。

あわてて片方の鼻の穴を抑え、「Sちゃん、ふんしてごらん。ふん!!」

sちゃんも頑張って「ふん、ふん」としますが、全くビクともしません・・・。

不思議ですね・・・。本当、何故、子どもはわざわざ、狭い鼻の穴に入れようと思うのでしょか・・・。悪戦苦闘しながらピンセットでようやく取り出し、鼻の穴を覗いてみると・・・・。なんと、今度はどんぐりの実の傘が外れて鼻の奥に残っているではありませんか・・・。

何故・・・よりによって、傘つきのどんぐりを・・・。

大人たちの慌てぶりに気付き泣きだすSちゃん・・・。「これはもう、病院にいきましょう」ということになり、御両親に電話します。

いつもお世話になっている近くの小児科の先生に耳鼻科を紹介してもらい、急いで耳鼻科に向かいます。園の外に一人だけ出られるというのが嬉しいのかこちらの心配はよそに、Sちゃんはなぜかご機嫌です。そして耳鼻科に到着、さっそく治療の椅子に抱っこして座り、「はい、じゃあ見せてね~」と先生が鼻の穴を見た途端、事の重大さに気付いたようです。

「お医者さん嫌だ~。いやだ~」泣き叫ぶSちゃん・・・。なんとかかんとか、看護婦さんに、抑えられながらようやく吸引機みたいなものが鼻の穴へ・・・・。「スポッ」という音と共に、出たドングリの傘・・・・。鼻の穴を消毒してもらい、ようやく治療も終わりました、病院から手をつなぎながら保育園まで帰る道、「Sちゃん、なんで鼻の穴にどんぐり入れちゃったの?」と聞くと「う~んとね、大事だったからだよ」と答えが返ってきました。

なるほど、大事だからかぁ・・・。

保育園につくとすっかりご機嫌になったSちゃんはまたドングリで遊びながら、何故か自分で作詞作曲した「ドングリを~鼻の穴に~♪入れたら~痛い~♪」と小唄を歌っていました。

子どもは自然を大切な友達の様に感じ、全身で遊ぶという気質というものを自然と持っています。公園等にいくと、そこに遊具がなくても自然に植物などで遊び始めるんですね。人間には幼いながらも、生きている動植物などを身近に感じ、大切にする心があるようです。

仏教では成仏するのが生命体に限定されているのではなく、この世のありとあらゆるものが仏になるのだよ、土も石ころも瓦礫も流れる川も水も風すらも人と同じく成仏の可能性を宿している。という「草木国土悉皆成仏」という教えがあります。

日蓮聖人も「観心本尊抄」というお手紙の中で

草木の上に色心・因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」

心を持たない草や木が色心、色というのは、人間や動物や虫が持つ生成し、変化する物質作用という意味であり、一方、心とは精神作用という意味です。そして、原因があり、結果があるという、因果(譬えるなら、木は太陽や雨の恵み、山の養分によって成長し、そして二酸化炭素を吸って酸素を作ったり、生った実により森の小動物達を生かし、山を土砂崩れなどから守るという理)の法則。この、色心と因果を持っていないのでなければ、木像・画像を本尊として仰ぎ奉ることは成り立たないのだよ。とおっしゃっています。

色心と因果をもつのは私達だけではないのです。私達と同じように自然にも一つ一つ色心と因果が備わっているのですね。そのことを子どもの時、自然と触れ合っている時は直に感じることができるでしょう、しかし、徐々に大人になり自然と離れていく現代生活において私達は「大事だから」というような心を忘れてしまっているのではないでしょうか。平気で山は切り倒される、川は埋め立てられる、海は汚れていく、ゴミは平気で自然の中に捨てられるのが今の現状です。

毎日テレビを見て、テレビのコメンテーターやニュースにつっこみを入れて会話するのではなく、そこに、私達と同じように生きている自然と無言の会話というものをしてみましょう。

きっと自然の声が聞こえてくるはずです。

義専