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1月8日 正月大祈祷会・水行式

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1月8日に当山で正月大祈祷会・水行会が執り行われました。

天候にも恵まれまして、水行式とともに皆様の御祈願が成就されますように、来られた方に日蓮宗修法師7名での加持祈祷を受けていただきました。皆様の願いが成就しますように、毎日祈りをささげてまいります。

 

平成24年度の厄年(厄払いを受ける年)

男性(数え年)

                              女性(数え年)

大厄入

大厄当

大厄入

大厄当

25歳

41歳

42歳

61歳

19歳

32歳

33歳

37歳

昭和

63年生

昭和

47年生

昭和

46年生

昭和

27年生

平成

6年生

昭和

56年生

昭和

55年生

昭和

51年生

 

平成24年度長寿の祝い(人生の節目に開運成就の御祈祷を!)

還暦60歳

古希70歳

喜寿77歳

米寿88歳

白寿99歳

昭和28年生

昭和18年生

昭和11年生

大正14年生

大正3年生

 

御祈祷はいつでも受けれますので、お気軽にお寺までお電話ください。

 

 

 

 

あけましておめでとうございます

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新年あけましておめでとうございます。2012年が幕を開けました。一年が終わり、また新たな気持でのスタート、本年は辰年です。中国の古典に「伏すこと久しきは、飛ぶこと必ず高し」という言葉が出てきます、じっとためていた力を解放して天高く昇る龍のように飛躍できるような年にできたらよいですね。妙国寺は今年も皆様が一年、幸せに過ごせますように心より毎日お祈り申し上げております。さて、昨年12月31日大晦日当山にて「竹灯篭・水行式」が執り行われました。

昨年は雪風すさまじい中での水行式でしたが、今年は寒いながらにも風は穏やかで、僧侶2人、当山檀信徒藤本力さん、荒尾日新商会の河村晃さん、また、落合葬儀社社長の落合学さんが、一年の悪縁を断ち、来る年に皆様が良き縁を結べるように計5名での水行式となりました。

 深夜にも関わらず沢山の檀信徒の方々にもお参りいただきました。水行式後は、初詣りをしてお屠蘇、だご汁を食べて新年を祝いました。是非来年も御参加ください。

 

 

 

 

 

11月8日 お会式法要

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先日11月8日に当山におきまして「お会式法要」が執り行われ、玉名 妙法寺 副住職 濱崎義英上人に御説法をいただきました。当山の御宝前も毎年11月8日を境に冬仕度いたします。綿帽子を配布いたしておりますので、皆様のご家庭のお仏壇も冬仕度されてください。

アンパンマンの生き方

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最近二歳の長女が誰でも通る道なのでしょうが、「アンパンマン」に熱中しております、「アンパンマン」顔がアンパンという不思議なヒーローです。

アンパンマンの歌「アンパンマンのマーチ」という「そうだ、うれしいんだ生きる喜び」から始まる歌、その中に「何のために産まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそんなのは嫌だ」という歌詞があるのですが、十か月の弟に向かって長女が「じゅんくん、じゅんくんは何のために産まれて、何をして生きるの?」当然質問された弟はポカーンとした顔、するともう一度「何のために産まれて何をしていきるのか~」と問いただしていました(笑)。

 

さて、アンパンマンは1969年生まれで、やなせたかしさんが作者です。やなせたかしさんは御自身の戦争体験を基に戦中・後の深刻な食糧事情もあり、人生で一番つらいことは食べられないこと」という考えをもっておられました。これまでのヒーローは「正義」と口では言っていても飢えや空腹に苦しむ人間へ手をさしのべることはしなかった。そこから困った人に食べ物を運んでくるというヒーローが生まれたそうです。

アンパンマンはお腹が減っていて泣いている子を見つけると「僕の顔を食べなよ」と顔の一部を与えます。自らが傷つき、悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしません。それでありながら、たとえどんな敵が相手でも目の前の人を守るために立ち向かいます。

私達はアンパンマンのように、純粋に他人の為に何かをするというのは難しいものです、これは何故かと言いますと、仏教的に言いますと、他者のために何かをしようとすると、する方にもされる方にも「世間八法」と呼ばれる、通常世の中で大切だと考えられる価値観が私達の考えに影響を及ぼし、それを行おうとするときに邪魔をするからなのです。

「利得(自分にとって得になるか?」

「損失(自分にとって損になるか?)

「楽か?好ましいか?」

「苦または嫌」

「名誉(社会的に褒められるか?)」

「誹謗(社会的にけなされるか?)」

「称賛(個人的に褒められるか?)」

「非難(個人的にけなされるか?)」

この八つのいづれかが日常生活の中いつでもどこでも私達の心に忍び込み、何かのふるまいをしようとする刹那に顔をのぞかせる。何故のぞかせるのか?と考えますと、やはり自分が大切だからですね。

自分を大切に一番に考える「利己主義」と呼ばれる考えと反対の考え、自分より他人の幸福や利益を先にと、他人の幸福と利益が第一と考えることが「利他主義」と言います。

仏教ができたばかり、原始仏教といいますが、自分が厳しい修行をして悟ればそれでよしでした。しかし、後々にそれではお釈迦様が本当に言いたかったことではない。自分だけが悟ればそれでいいのではなく、他人の幸福を願い、すべての人を救うために悟りをひらくべきであるという利他主義の教えへと変化していきました。

法華経の中にたくさんの菩薩さまが出てこられます。菩薩さまが仏になるための修行に「自未得度先度他」自分一人の悟りのために修行するのではなく、まず他人を先に渡す、いうならば、自分のことはさておいてもまず他人のことを考えるという菩薩修行があります。

利己主義に陥ると必ず人は破滅を迎えます。ある程度の利己主義は必要ですが、どこかでブレーキをかけ、利他主義を持つ、そうすると、徐々に世間八法は消えて、自分の中にアンパンマンのような菩薩の心が生まれてくるでしょう。何しろ世間八法に捉われないのですから周囲の人の眼からも解放され、生き方も楽になるかもしれません。

アンパンマンが幅広くここまで人気なのは何かそういう菩薩の心をアンパンマンから感じ取れるからなのかもしれませんね。人にとって学ぶべき善き手本であるからでしょう。私達大人は子ども達に、やはりこのような生き方を見せて良い見本に成るようにしてあげなくてはいけませんね。

お会式さくら、綿帽子つくり

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十月二十四日にお会式法要にて皆様にお配りする桜の花とお祖師様の綿帽子つくりをしました。当山の綿帽子や桜の花は、世話人様方が毎年集まってくださり、紙を切り、食紅で色を染めて花弁や葉を一枚一枚丁寧に作っていらっしゃいます。

日蓮大聖人がお亡くなりになられた時に悲しみのあまりに季節はずれの桜の花が咲き乱れたとうお話から、日蓮大聖人のご命日に合わせて行われる「お会式」では桜の花をつくり、飾ります。当山では、十一月八日 十一時からご報恩お会式法要を執り行います。なお、月例鬼子母神月例祭もあわせて執り行います。当日は、玉名 妙法寺副住職 濱崎義英上人によりますお説教がございます。なお、お参りいただいた方に、皆様の家庭のお仏壇のお祖師様の像の綿帽子とお会式桜、紅白饅頭を差し上げます。どうぞお誘い合わせてお参りください。

 十一月八日 十一時から

「宗祖日蓮大聖人お会式法要」

 ・法要 祈祷 法話 おとき・ 

 

花火

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先日、近所の遊園地で行われた花火大会に行ってきました。毎年行われている花火大会ですが、毎年見る方の気分によっても違ってくるのか、その年によって色んな気持ちにさせてくれます。今年も、花火は夜空に様々な色とりどりの美しい模様を描いていました。昔から花火は夏の風物詩として人々の眼を楽しませていました。様々な説はあるものの外国より鉄砲伝来とともに日本に伝わり、江戸時代には花火を専門に扱う鍵屋と玉屋によって人々が楽しむ花火の文化が形成されたそうで、今でも花火を見て「たまや~」「かぎや~」と叫ぶのはその名残だそうです。自らを燃やして暗い空に美しく光を宿す花火、じっとみていると法華経の中にでてくるこんなお話を思い出しました。

妙法蓮華経薬王菩薩品第二十三のお話の中の主人公、「薬王菩薩」という菩薩さまが、前世で「喜見菩薩」という名前で仏さまに仕えていた時、喜見菩薩は法華経を学び苦行を耐えて、人に教えを説くために、相手に応じてふさわしい姿を自在に現すことができるという神通力を体得しました。そして、虚空の中から色々な花や香木を雨のように降らして自分を導いてくれた仏さまに感謝の心で供養しました。しかし、このような供養よりも自分の身をもって仏さまを供養する方が勝っていると考え、永い間あらゆる香油を飲み、仏さまの前で体中に香油を注いで自らの身を燃やしその光によって全世界を照らし出しました。その身体はその後、千二百年の間燃え続けてようやく燃え尽きました。その後、とある国の王様の子どもとして家に生まれ変わった喜見菩薩の前に仏さまが現れ、「私は今夜入滅するであろうから、あなたが塔を建てて供養しなさい」と告げられ、入滅されました。嘆き悲しみながら喜見菩薩は栴檀の薪で仏さまの遺骸を焼いてお骨を拾い集め八万四千もの塔を建て、その塔の前で自らの臂を燃やして灯りを点して七万二千年の間供養しました。そして、たくさんの数えきれないほどの人々に菩薩の心を発さし、悟りの境地へと導いたのです。喜見菩薩は自分自身が仏様を供養して自分が満足するためだけではなく、人々をも導くために自らが灯りとなられたのです。

 お彼岸の期間は二十三日の彼岸の中日の前後三日合わせて七日間、今私達が暮らす比岸の世界からご先祖様たちがおられる苦しみも悲しみもない彼岸の世界、その彼岸の境地でこちらの世界で生きるための六波羅蜜という六つの修行方法の中の一つ、いつも最初に言われるのが修行方法が「布施」行です。布施とは「誰かにものを施すこと」であり、自分の損得を考えずに誰かのために自らを犠牲にしてまでも誰かの為に動くことなのです。ろうそくを思い浮かべてください。ろうそくは自らを燃やして周囲を明るくします。暗い時は、その灯りが道を示してくれて人々に安心を与えます。

最近では暗いニュースが多く、暗いニュースが流れる度にどうしても私達も暗くなってしまいます。そんな時にこそ、この喜見菩薩のように、自らが灯りをともして周囲を明るくしていく生き方こそ大切でしょう。

明日9月23日 当山にて11時より秋季彼岸施餓鬼供養が行われます。卒塔婆をたて、故人に感謝の祈りを捧げて供養しましょう。

こくんぞさん

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9月13日、地元の「四山神社」で毎年2月と9月に行われている御祭、「こくんぞさん」に行ってきました。ここの四山神社は虚空蔵菩薩が星に乗って降りてきたという伝説がある神社です。毎年行われている一年に二回、「こくんぞさん」と呼ばれる御祭が行われ、露店がたくさん並びます。昔と比べると参拝者の方も露店の数もだいぶ少なくなって寂しくなってきましたが、学校が終わる夕方くらいになると小学生たちがおこずかい片手に露店を楽しげに物見しています。私が小学生のころは平日「こくんぞさん」がある日、友達と「はよ、こくんぞさんに行きたかね-」と話していると「ピンポンパンポン」と校内放送があり、「本日はこくんぞさんの日です。皆さん地元の御祭に是非参加してください。今日は五時限目はお休みにします。」と校長先生が今では考えられないかもしれませんが粋なはからいをしてくださって、皆で「やったー」と御祭に行った記憶があります。

この「虚空蔵菩薩」、日蓮宗は無縁ではありません。日蓮大聖人がお若き頃清澄寺で修学されていた頃、虚空蔵菩薩堂で「日本第一の智者となし給え」と暇さえあれば籠って願をかけられ続けられ、その結果虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ、明星のような大宝珠を授けてくださったと伝えられています。

 

 

人口が徐々に減少し、高齢化が進むにつれて何かと活気がなくなっていくのはしょうがないことではありますが、この街で育ってきた気持ちとしては何とかまた、あの子どもの頃の賑わいをもう一度見たいと願ってやみません。

口癖

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私はよく、何か物事を行ってひと段落すると小さく「OK」と言ってしまう口癖があるのですが、最近2歳になった娘が、おもちゃを片付けた後頷きながら、小さく「OK」、歯を磨いてうがいをして小さく「OK」、着替えて「OK」と、何かと一人頷きながら「OK」、「OK」と・・・。教えたはずはないのですが、いつの間にか同じように私の口癖が娘にうつっていることに気がつきました。ジョン・ロックというイギリスの哲学者は「心の中には生まれながらに刻み付けられているものはない、つまり子どもは生まれた時はまだ何の観念も持っていない白紙の状態であり、教育によってさまざまな観念を獲得するようになる」こんな風に仰っております。確かに、子どもは生まれながらに個性は持ち合わせて産まれてきますが、その環境に左右され成長するに従って大きく変わっていくものです。だから赤ちゃんは、大人や自分より大きな子どもの行動をじっと見つめてしきりに観察しています。

白紙だからこそ私達大人の日々の習慣をしっかり観察し、それを真似るのですね。日本には昔から「子は親の背中を見て育つ」という言葉があります。保育園に務めていた頃のことです、子どもたちが大人の真似をする「ごっこ遊び」をして遊んでいると、必ずその「ごっこ遊び」の中にお父さんやお母さんが登場し、自分がいつも言われているであろう「・・したらだめよ」などの台詞が出てきたり、必ずと言っていいほど携帯電話やパソコンが出てきたり、よく観察しているなぁと感心したものです。

さて、子どもに「ご先祖を大切にしなさい」「命を大切にしなさい」とはよく言って口では教えることができても子どもが理解するのはなかなか難しいものです。ですが、お盆やお彼岸お墓参りの時期にはお子さんをお連れになって参られる姿をよく見ます。最初は見るだけであった子ども達もいつの間にか大人の真似をし、自然に自分たちだけで花をかえたり、掃除したり、手を合わせたりいつの間に大人がすることを自然に学んでいます。

妙法蓮華経方便品第二の中に「小善成仏」という教えが説かれます。これはどんな人間が、どんな些細な事でも、心から仏を信仰する気持ちを行いに表すならば、その人はそれだけでもう仏道を成じ、仏となったと同じであるよ、ということです。そして、その行いについての例えがいくつか説かれております。その中に、「子どもが遊びで砂を寄せ集めて仏塔をつくる真似をしただけでも、あるいは仏像に向かって礼拝し、または合掌する、または頭を下げるだけで、あるいはただ一度南無仏と唱えただけでも、彼は成仏しているのである」というところが出てきます。

祈っている姿、感謝している姿、そのものを直に子どもに見せ、同じように体験させていくと、きちんと子どもの中にその姿が刻まれて、ご先祖や亡くなった人を大切に想う気持ちが自然と生まれてくるものなのです。そうすると、命に敬意を持つという大切さや血のつながりや家族のありがたさを知ることができるようになるでしょう。

 

昔は子どもを連れてお寺に参られるのが多かったですが、最近は少なくなってきました。「子どもは騒いでしまうし、迷惑に感じるから」と感じられて遠慮されてる方もいらっしゃるかもしれませんが、子どもは騒ぐのが当たり前ですし、それよりもきちんとお参りする姿を見せ、体験させることがもっと大事な事です。お盆の時期になります。どうぞ、命の大切さやご先祖とのつながりを目に見える形で後世に教えていきましょう。

お盆の夕焼け

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今年も、梅雨明けの暑さと共にお盆の期間がやってまいりました。こちら熊本県荒尾市では八月十三日~十六日までがお盆の期間ですが、熊本市内は関東と同じく七月十三日~十六日をお盆の期間とされています。何故このようにお盆の期間が違うのかといいますと、旧暦の頃は七月十三日から十六日までがお盆の期間だったのですが、新暦になり、新暦の七月でお盆をするか、旧暦にあわせてお盆をするか、一か月遅らせて八月にお盆をするかの三パターンに分かれたそうです。 

 

農業を営む方が多かった時代、新暦の七月にあわせると忙しくて都合がつかず、やはり一か月遅らせた八月にしようという地方が多かったようです。福岡や長崎、九州ほとんどが八月盆です。その中でなぜか熊本市が七月にお盆をします。これは、先輩のお上人に聴いたお話しなのですが、熊本市内が七月にお盆をするのは、昔は九州の中では熊本が国から大変重要視されており、出先機関も多かったこともあって、中央に合わせて七月にお盆をしていたのだろうと仰っていました。 

 

さて、お盆といいますと私には忘れられない思い出があります。小学生の低学年くらいの時です。 

 

  お盆の時期になると日も長くなり、夕方になると空には綺麗な夕焼けが生まれます 

その日はとても夕焼けが綺麗でした。赤や黄色やオレンジやらピンクがかったもの、西の空は色とりどりでとても美しく、「綺麗だなー」と最初は見とれていましたが、ふと、見入っているうちに夕焼けが良くない前兆を示しているかのような感覚に陥り、もの凄く不安な気持ちに襲われ、何故か世界がおわってしまうかのような感じに捉われてしまいました。そして怖くなって泣き出して急いで家に帰りましたが誰もいません。余計に恐ろしくなり、急いで近くに住んでいる母と十近く離れている母のお姉さん、伯母さんの家に泣きながら駆け込み「おばちゃん、おばちゃん!空が真っ赤!変な色してる!おかしいよ!」と当時ベッドで療養生活を送っていた伯母さんに助けを求めました。伯母さんは幼少の頃より祖父母を知らない僕にとって実の祖母のような存在の人で、何か困ったり、両親に怒られたりすると、助けてくれる僕の駆け込み寺でした。

 

すると伯母は優しく「あれはね、今お盆だから色んな家の亡くなったご先祖様達が帰ってきているんだよ、だからね、空が喜んであんなに綺麗な色しているんだよ、あの色はご先祖様達が帰ってきたという証拠なんだよ。だから怖いことなんて何もないよ。」と優しく諭してくれました。子ども心ながらその言葉に妙に納得し、安心した僕は泣くのをやめて、夕焼けに向かって一緒に手を合わせました。

 

残念ながら叔母はもうこの世にはいません。しかし、今でもあの夏の日のことは強く心の中に残っています。お盆の時期に綺麗な夕焼けを見る度に、その小学生だったあの日を、伯母の言葉と共に思い出し、「帰ってきたんだね!おかえりなさい」と心の中でつぶやきながら、あの温かい言葉と共に伯母の笑顔を思い出します。

 

さて、法華経の中で「善知識」という言葉が出てまいります。善き知識を与えてくれる人、善き友のように道を示し導いてくれる存在であるという意味です。出家し僧侶となった私にとって、幼き頃、何気ない日常の一コマにて、大切なことを教えてくれた叔母はまさしく善知識でした。

 

人は無くして初めてその価値に気がつく生き物です。側にある時はそれがどんなに価値のあるものでもありがたくは感じれとれないものです。無くして初めてそのありがたさに気がつくものです、これは人と人との関係もしかりです。

 

どんな人でも自分にとって善知識になりえるはずなのですが、生きている間にはその人の良さになかなか気がつくことができない。亡くして初めてその人と向かい合うことで、あの人はこんなことを自分に残していってくれたんだ、あんなことを教えてくれたんだなと、改めて気がつくことができます。

 

供養するというのは亡くなった人と向き合うことでもあるんです。そうしているうちにだんだん自分自身とも向き合えてきます。

 

お盆の期間、亡くなった方々が帰っていらっしゃいます。手を合わせて、故人をしのび、そして思い出話に花を咲かせながら、こんなことがあったね、あんなことがあったね楽しくおしゃべりされてください。

きっと、どこかで笑顔で聴いていらっしゃることでしょう。

浄土の世界

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お檀家さんの所にて追善供養のお経をあげて、お話をしております・・・。

「私達は亡くなったら四十九日の冥途の旅を終えるとお釈迦さまやご先祖様のおられる霊山浄土というお浄土の世界へといくんですよ」とお話をしていますと、こんなことを聞かれました。

「あの~。うちは日蓮宗なんですけれど姉は浄土真宗の家に嫁ぎました。その時は極楽浄土に行くとお坊さんが仰っていたんですけれども、それぞれ行く世界が違っているならもう会えることはできないんですか?」

 なるほど・・・ごもっともな疑問です・・・。浄土間の行き来があるかどうか?

 浄土というのは簡単にいえば「仏様の国」です。仏様といえば一般的にお釈迦さまをイメージしますが、実はお釈迦様以外にもたくさんの仏様がいらっしゃいます。お釈迦さまが教えをとかれた時を現在と考え、過去世、現在世、未来世の三世にわたってたくさんの仏様がそれぞれの国を持っておられて、その仏様の国を浄土と言います。有名どころでいいますと例えば、霊山浄土、極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃国、観音菩薩の補陀落浄土などなどです。

法華経を信仰する人はお釈迦さまのおられる霊山浄土、浄土真宗や浄土宗、お念仏信仰をされ、阿弥陀佛を信仰していらっしゃる方は極楽浄土、真言宗の方は十三回の輪廻を繰り返して徐々に大日如来の元へと登っていくそうです、どの宗派も自分が拠り所とするそれぞれの仏様の元へと行き、そしてその浄土、痛みも苦しみもない安穏とした世界にてご先祖様や亡くなった故人の方々といずれは再会する、日蓮宗にかかわらずどの宗派もそのように説かれておりますが、それぞれの浄土の世界を行きかうことはできるのだろうか?ということには考えたことがありませんでした。

 「今日はどこの浄土に行ってみようかな~たまにはおばさんのいる極楽浄土にでも遊びに・・・、いやいや久しぶりにおじいさんのいる霊山浄土にでも行ってみるか~」

なんてことが浄土では行われているのでしょうか・・・。霊山浄土は法華経が永遠に説かれる場所でありますから法華経の中に答えがあるはずです。法華経を読んでいきますと、たくさんの人や菩薩、龍や様々な一族がお釈迦様の教えを熱心に聞いている情景が描かれています。法華経の中、「見宝塔品第十一」という場面ではお釈迦様が一筋の光を放たれ、東の方角に数えきれないほどの国土とそこを治める様々な仏様を見られると、仏様方はそれぞれの治める国から一人の大菩薩を従えて皆集まった。と記されてあったり、「常不軽菩薩品第二十」では、阿弥陀仏の極楽浄土からきた阿弥陀仏の智慧第一の弟子と言われる得大勢菩薩(勢至菩薩)が出てきたり、「妙音菩薩品第二十四」の場面ではお釈迦さまの眉間から放たれた一筋の光が東方を照らし何千億という世界を越えて‘浄華宿王智如来’という仏の世界の「妙音」という菩薩に届き、妙音菩薩がお釈迦さまにお会いしたいと願い、導かれて霊鷲山にやってきたり、「普賢菩薩勧発品第二十八」では‘宝威徳上王仏’という仏の国の普賢菩薩が法華経を聴くために百千万億の菩薩とともにお釈迦様のもとにやってきたりと、浄土間での行き来というのは結構記されております。

 時に、「人は死んだら無になるにきまっているじゃないか!あの世なんて見たことないんだからあるわけがない!」こういう事を仰られたり、お釈迦様の「毒矢の喩え」というお話を持ち出されて「お釈迦様はあの世の存在を否定されたんだ!」と言う方もいらっしゃいます。「毒矢の喩え」では「死後の世界はあるかないか?」というお弟子の質問に対し、お釈迦様は「わからないことをあれこれと考えても仕方がない、今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と答えられました。

 

あるか?ないか?などと結論がでない問題を論じるのではなく。信じる信じないの問題ではないかと思います。死後の世界については「考える必要がない」という方はそれで結構だと思いますが、誰かにあちらで幸せに暮らしてほしいと願ったり、また誰かに再会したい、と思ったり、死について恐ろしいと感じるならばしっかり信じる。信じ、信仰することによって必ず浄土の世界は現われるのです。

 日蓮大聖人は「法華経を信仰する人は必ず霊山浄土に行く、そしてそこで、亡き愛しいと思う方と再会できる、それを励みにしっかり信心に勤めなさい」と仰られました。御自身もお弟子や信者の方々に「霊山浄土で会いましょう」と何度も仰られております。法華経の中「提婆達多品第十二」の中では、お釈迦さまの「未来世の中に若し善男子、善女人あって妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ずして十方の仏前に生まれん」という言葉が出てきます。法華経の中でもしっかりと法華経を信仰した者は仏様の前へと、いわば浄土の世界へといけることが述べられています。

 浄土の世界を信じるということは、自分の命や家族の命、人の命と向き合うことです、遺された命をどう一生懸命に生きていくか、落ち着いて考えることができます。ただただ、余計な理屈はさておき信じる、お釈迦さまの言葉、大聖人の御言葉、受け継がれてきた先人たちの教えを信じ、しっかりと与えられた命を精一杯生きることが大切なのです。