» ちょっとしたお話
2020年、東京でオリンピック、パラリンピック開催が決定しましたね。開催まで7年、日本がどのように変わっていくのかすごく楽しみです。
1964年以来56年ぶりの開催ということで、海外旅行が苦手な私にとって生でオリンピックを見れるチャンスはもうないかもしれません。と大げさなことを言っても結局はテレビで見てそうですが・・・(笑)
子供たちの心の中にも鮮明に記憶されることでしょうし、五輪が日本であるということは私たち日本人にとっても明るい希望になることでしょう。
今は多難ではあっても希望へ向かって前にすすむ。このことが非常に今の日本に大切なことなのではないかなと思います。
「オリンピック」といえば、とあるお檀家さんの男性の方を思い出します。
ロンドン五輪が開催された年のことでした。その方はまだ年齢的にはバリバリ働けるお年でしたが、肺の病気でもう何年も前から何度も入退院を繰り返され、常に酸素吸入器が傍にある状態。楽しみといえばテレビでの大好きなスポーツ鑑賞。常に日本の選手はチェックされておられました。
しかし、残念ながら昨年になって病気がひどくなってしまいました。
咳き込みながら、荒い呼吸をしながら・・・
「オリンピックがあるけん、ちゃんと見るまでは死ねんですよ」
その方にとって大好きなオリンピックをみることが生きる目標であって、生きる希望でした。
しかし、ロンドン五輪の開会式の日、眠るように息を引き取られました。
蝉の声が賑やかな真夏の日のことでした・・・。
「きっと、大好きなオリンピック、お空の上から特等席で。もう苦しむことも煩わしい機械をつけることもないし、とびきりの笑顔で見てるんじゃないんですかね~」
奥さんが青い青い夏の空を見上げながらポツリとそうおっしゃいました。
もう一年、生きておられたならば・・。
日本で、東京で開催される。このことをお知りになられたらどんなに喜ばれただろうかな~。と思います。
七年後に開催されるオリンピック、パラリンピックがあるから頑張ろう!!と思われる方もたくさんいらっしゃるでしょう。たくさんの方にとっての希望ができた。
このことだけでも日本に五輪が招致されたことは素敵なことだと思います。
厳しい夏も台風とともに過ぎ去ったようです。
最近では朝晩少し冷え込むようになってきました。皆様いかがお過ごしでしょうか?
当山でも研修で出かけていた私の帰宅にあわせて里帰りしていた妻と子供達が帰ってまいりまして、忙しい日々がまたスタート致しております。長男2歳、大阪のとあるプールで修行してます写真です(笑)一応「なんみょーほーれんげきょー」とお唱えしてました。
今回の夏の思い出といえば・・・・・。楽しい思い出や、様々なことがあったのですが・・・・一番の衝撃は、生まれて初めて「スズメバチ」に刺されたことでしょうか・・・。今年はどうやら動きが活発なようで様々な所で被害が出ているようですね・・・。色んなハチに今まで刺されたことはあったのですが、あの衝撃は初めてでした・・。
しかも初の企画「一日寺子屋」の前日、はりきって竹を切りに檀信徒の方々と竹やぶの中に入った時のことでした。
「ブ~ン」という不快な音ともに目の前の方の肩にとまるスズメバチ、
「あぶないですよ!!!」と言いかけた瞬間に左胸に強い衝撃が・・・。
まだ、こんなに速く走ることができたんだ~
と思わず感心してしまうくらいのスピードで竹林を猛ダッシュしました。
胸には針がずっと刺さっているような衝撃がつきまとい・・・。
いろいろネットで調べ、同じく刺されてしまった檀信徒の方と二人で、皮膚科へ駆け込みました!
すぐに注射をしてもらい、その瞬間から30分ほどは痛みが消えていたんですが、一日強痛みは続きましたです・・・。
そのあとはかゆみだけが長く続いたのですが、二人とも大事に至らなくて本当によかったです
さて、これからの妙国寺、秋になり平成25年度の後半に突入します。
アイデアはあるものの中々実行できてないことがたくさんありますが、皆様に楽しんでお寺に来ていただけるような企画を色々と催していきたいと思います。
「参加してみたいな」と思われた方、ぜひぜひ遠慮なくご参加くださいませ。
あ、とりあえず、先日会った旧友よりホームページの当山僧侶紹介の私の顔写真が「ものすごく怪しい。住職に比べて、かなりいかがわしい」とご指摘をうけましたもので・・・
本人はちっともいかがわしくないんですが・・・・。
まずは、それから更新しようかなと思います。
先日、「4clover」 さんによります、パステル(和)アートで観音さまを描く!が開催されました。
http://clover47.exblog.jp/19560480/
恥ずかしながら正直、絵心が全くない私でもやっていると巨匠になった気分になれるパステルアート、とても楽しめました!
指と綿棒とコットンで描きました!なんだかそれっぽく描けたような気がします(笑)
このパステルアートは先生曰く、描く時の心境によってとても繊細に変化があるそうで、観音さまも描いている本人や身近な人に似てくるそうです。
「観音さま」というのは、正確には「観世音菩薩」と言いまして、たくさんいらっしゃる菩薩さまの中でも大変メジャーな菩薩さまです。
私たちが読む法華経のお経の中に「観世音菩薩普門品」というお経があります。その中で観音さまは、私たちが住んでいるこの世界にこられる時に三十三の姿に変化される。と書かれております。どういった姿かと言いますと、国王であったり、菩薩になったり、仏になったり、長者になったり、お坊さんになったり、男性の姿になったり、女性の姿になったり、或いは子どもの姿になったりと・・・
つまりは、様々な姿になられますので、実は私たちの隣にいらっしゃる方が観音さまかもしれない。ということです。
「あなたも観音さま、私も観音さま」
という言葉を聞いたことがあります。だからこそ人は人を敬わなければならないし、一人一人が菩薩として生きていかねばならないのですね。
描く観音さまが身近な人に似てくるというのは、そういうことなのかなぁ~としみじみ感じました
出席された方々も大変楽しまれて、和気あいあいと楽しい時間を過ごしました!!
「4clover 」さん、ありがとうございました!また是非お願いします!
パステル(和)アートに興味をもたれた方、これから当山にて、4clover さんによりますパステル(和)アート教室が随時開催されます、どうぞお楽しみに!!
お盆、亡くなった方々が帰って来られる時期です。
毎年この年になると、テレビで「あなたの知らない世界」というちょっと怖い番組がお昼にやっていたのですが、最近はありませんですね。
実は結構恐がりなんですが、恐いもの見たさに子どもの頃はよくみていました。
先日、とあるお檀家さんの所でそこの家のおばあさんが、
「幽霊って、いるんですかね~」としみじみと聞かれました。
「え?なんでですか?」と聞き返しますと
「むかし、私が子どもの頃、親戚がみんな集まって叔母さんの家に泊まった時のお話です。叔母の家はとっても広い昔ながらの御屋敷でした。家には長い板の間の廊下があって、そこに鏡台がポツンとあったんです・・・。
夜中にトイレに行こうと廊下を歩いていましたら、ふと・・・・・・その鏡台に目をやると白い着物を着た白髪のおばあさんがじーっと、すわっていらっしゃったんです。
どこのおばあさんかなぁ?とは思いながらも「こんばんは~」と声をかけると、こちらを振り返らずーっと髪をとかしていらっしゃる。
なんか変だな?とは思ったんですが、用を足してまた廊下を歩くと、また一心に髪をとかしていらっしゃったんです。
次の日、叔母さんに、
「昨日廊下の鏡台のところで、おばあさんがいたんだけれど、あの人は誰?」と聞きますと、
叔母さんの顔はみるみる青くなって・・・・・・
「あれ!!あんたも見たのね?」
「実はね、あの鏡台のおばあさんは、お客さんが泊まる時にたまに出てくるんよ、こないだも私の友達が見てしまったのよ。夜、白い白い姿で、鏡台に座って一心に髪をとかしている姿。でもね、それが誰なのかはわからないのよ、あの鏡台もね~、この家に引っ越して来た時からあったものだから、いつからあるのかわからないのよ・・」
そう、叔母さんが言ってたんです、あれが幽霊っていうものだったんでしょうね~」
幽霊がいるのかいないのか、宗教間によっても、その方々の思想によっても様々な意見があるようですが、そもそも幽霊がいないことを証明することは、幽霊がいることを証明することと同じくらいに難しいそうですね。
「私は当然のことながら、先祖の霊や亡くなった方々の魂を供養したり、お祓いする立場にあります、だからではないですが、「いますか?」と問われたならば「いますよ」と即答します。
「いるの?いないの?」ということと、幽霊が「見える?見えない?」ということは実は違う事なのではないかなと思います。
以前、東日本大震災の被災地で「幽霊を見た」という方が続出されているということが、「サバイバーズギルド」という戦争や災害、事故や事件、虐待などから生き残った人達が、自分が生き残ったことについて後ろめたいと思う心理が働いている、というお話を聞きました。
見えた方にとっては、その事が真実であるし、人が千差万別である以上その人が感じる感覚も千差万別でしょうし、何しろ目は感覚器官であって、その情報を処理するのは脳ですから、それぞれが見える景色というのは必ずしも均一とは限らないわけですね。だから、色んな条件が重なった時、見えた方には見えているのでしょう。
何はともあれ、もうすぐ、お盆の期間です。
供養をするということは、亡くなった方を偲ぶことであり、いつまでも大切に想い、感謝すること、いつも護られているということを感じることです。いたずらに怖がる必要もありませんですね。
ふと気が付きますと、もう七月も終わりそうです。8月13,14,15,16になりますと荒尾市ではお盆の時期がやってきます。
お盆は正しくは「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経がありまして、その中にお盆の行事のいわれが説かれています。
お釈迦様の弟子に、目連という方がおられました。目連は「神通第一」と言われ、これは一種の超能力みたいなものです。この力がお釈迦様の弟子の中でナンバー1でした。目連は自分のお母さんが亡くなった後、その力で母親が死後どのようにしてるか探りました。すると、母親が餓鬼道(飢えの世界)に堕ちているのを知ります。そこで神通力によって母を救おうとするのですが、どうしても助ける事ができません・・・。
そこで目連はお釈迦様に相談しました。すると、
「目連よ、いかにそなたが神通第一でも神通力によって母を救う事はできない。七月十五日、僧たちが三カ月の安居を終えて遊行に出かける日に、大勢の僧に供養しなさい。その功徳によって、母は救われるであろう」
インドでは、雨季の三カ月は旅行が困難です、それで僧は一か所に定住して修行します、そのことを安居(あんご)と言います。安居は七月十五日に終わるのですが、その時に大勢の僧に供養すれば、餓鬼道に堕ちた母も救われる。
これがお盆のいわれです、なお、「盂蘭盆」という言い方ですが、サンスクリット語の「ウランバナ」の音訳で「逆さ吊り」という意味です。インドでは、子孫のない先祖は死後、子孫に祀ってもらえないので、逆さ吊りの苦しみを受けるという伝承があり、それがこの言葉の由来とされているそうです。
日本ではお盆の行事は、先祖の霊魂を祀る、あちらの世界から帰って来られたご先祖さま、亡くなった方々を供養し、感謝することが中心になっています。仏教によって日本に入ってきた行事であることは間違いのないようですが、だいぶ日本式の仏教行事だそうです。
地域によって7月盆と8月盆があり、都会では7月盆ですが、これも旧暦に合わせて8月にしたり、農作業の関係によって月遅れの8月盆になったというお話もあります。熊本県でも熊本市内は7月盆ですが、田舎の方は8月盆です。
まぁ、でも7月盆のところでも8月がお盆休みといいますけどね・・。
とはいえ、仏教は非常にその土地土地の風習や神道的は考えに柔和しながら発展してきた宗教なので、その土地その土地の風習にあわせながら行うのが一番よいですね。
お墓参りされる方もたくさんいらっしゃいます、前にお墓参りの一般的なやり方を載せていました。
http://myokokuji.info/news/511
当山妙國寺では、8月16日 11時から皆さまのご先祖様、お亡くなりになられた方々の「お盆施餓鬼供養祭」をいたします。お申込みいただきました、一軒一軒卒塔婆を立てて供養いたします。
今生きて、生かされていることの感謝、亡くなった方々への感謝の想い、お盆の期間中、こちらの世界へと帰って来られた方々に、卒塔婆にして伝えられてください。
先日、23日フラワーアレンジメント教室がありました。
今回は向日葵(ひまわり)を使ってのアレンジでした!
夏らしくて良いですね!向日葵は「あこがれ」や「崇拝」「熱愛」などの花言葉があるそうです。夏の訪れを感じさせてくれるお花ですね。
誇らしげに太陽に向かってまっすぐ背をのばす力強い生き方は私たちの胸を打つものがあります
本日参加された方々のスイーツは何度かブログでも紹介しました荒尾の「小さなケーキ屋さん mogu-mogu」さんのアイスクリームです!
濃厚なアイスクリームの食感がなんともたまらない絶品でした
さて、来月のお寺でフラワーアレンジメントは8月20日(火)13:00~です。
「ブリザードフラワー」のアレンジだそうです。講師の先生はflorist Keri の沖慶子先生です。
会費は3500円です。初心者の方、託児が必要な方、大歓迎です。お電話でもメールでも構いません。
どうぞお気軽にお申し込みください。
夏になりました、空も青々とし、遠くで聞こえてきたセミの声も徐々にその数を増しています。
しきりに大きな声をあげて夏の到来を告げる蝉ですが、
その一生は、卵からふ化した後種類によって違うようですが、7年間ほど土の中で暮らし、ようやく明るい外の世界へ出て羽ばたきますが、その期間は短く1~2週間しか生きることができないそうです。
どうしても、私たちは成虫になってからの1~2週間しか目につかないので蝉といえば寿命が短く可哀想に思ってしまいますが、地中の中の期間も入れると昆虫の中でもその寿命は相当長い方だとのこと。
子どもの頃はセミの幼虫のあの独特のスタイルがものすごくカッコよく思えてしきりに抜け殻収集に精をだしていました。
そして、動いている 幼虫を見つけたときはかなり興奮したものです!虫かごに木の枝や葉をたくさん集めて、羽化する様子を観察していました!
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」
元禄3年に詠まれた松尾芭蕉の俳句です。
地上に現れてから、短い命であるセミであるが、この勢いのある声を聞いていると、とてもそんなはかなさは伝わってこない。それが無常というものであろう。
蝉は自分自身がはかない命だと知っているからこそ精一杯なくのでしょうか?
それとも、そんなすぐに終わる命だとは思ってないからこそ精一杯なけるのでしょうか?
いったいどっちなんでしょうね?
生きているものには平等に訪れる命の終わり
自分自身の命に置き換えると考えてしまいますね。
日蓮大聖人は、「妙法尼御前御返事」というお手紙の中で
「人の寿命は無常である、出る息は入る息を待つことはない。風の前の露すら、なお譬えにならぬほどはかない。賢き人も愚かな人も、老いた者も、若き者も、定めがたいのが世の習いである。だから、まず臨終のことを習ってから他のことを習うべきなのである」
と仰っておられます。
精一杯生きるためにも、一日一日を大切に生きるためにも、命を大切にするためにも、私たちはまず、「命は、はかないものである」このことから学ぶべきなのではないでしょうか?