先日11月8日に当山におきまして「お会式法要」が執り行われ、玉名 妙法寺 副住職 濱崎義英上人に御説法をいただきました。当山の御宝前も毎年11月8日を境に冬仕度いたします。綿帽子を配布いたしておりますので、皆様のご家庭のお仏壇も冬仕度されてください。

最近二歳の長女が誰でも通る道なのでしょうが、「アンパンマン」に熱中しております、「アンパンマン」顔がアンパンという不思議なヒーローです。

アンパンマンの歌「アンパンマンのマーチ」という「そうだ、うれしいんだ生きる喜び」から始まる歌、その中に「何のために産まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそんなのは嫌だ」という歌詞があるのですが、十か月の弟に向かって長女が「じゅんくん、じゅんくんは何のために産まれて、何をして生きるの?」当然質問された弟はポカーンとした顔、するともう一度「何のために産まれて何をしていきるのか~」と問いただしていました(笑)。

 

さて、アンパンマンは1969年生まれで、やなせたかしさんが作者です。やなせたかしさんは御自身の戦争体験を基に戦中・後の深刻な食糧事情もあり、人生で一番つらいことは食べられないこと」という考えをもっておられました。これまでのヒーローは「正義」と口では言っていても飢えや空腹に苦しむ人間へ手をさしのべることはしなかった。そこから困った人に食べ物を運んでくるというヒーローが生まれたそうです。

アンパンマンはお腹が減っていて泣いている子を見つけると「僕の顔を食べなよ」と顔の一部を与えます。自らが傷つき、悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしません。それでありながら、たとえどんな敵が相手でも目の前の人を守るために立ち向かいます。

私達はアンパンマンのように、純粋に他人の為に何かをするというのは難しいものです、これは何故かと言いますと、仏教的に言いますと、他者のために何かをしようとすると、する方にもされる方にも「世間八法」と呼ばれる、通常世の中で大切だと考えられる価値観が私達の考えに影響を及ぼし、それを行おうとするときに邪魔をするからなのです。

「利得(自分にとって得になるか?」

「損失(自分にとって損になるか?)

「楽か?好ましいか?」

「苦または嫌」

「名誉(社会的に褒められるか?)」

「誹謗(社会的にけなされるか?)」

「称賛(個人的に褒められるか?)」

「非難(個人的にけなされるか?)」

この八つのいづれかが日常生活の中いつでもどこでも私達の心に忍び込み、何かのふるまいをしようとする刹那に顔をのぞかせる。何故のぞかせるのか?と考えますと、やはり自分が大切だからですね。

自分を大切に一番に考える「利己主義」と呼ばれる考えと反対の考え、自分より他人の幸福や利益を先にと、他人の幸福と利益が第一と考えることが「利他主義」と言います。

仏教ができたばかり、原始仏教といいますが、自分が厳しい修行をして悟ればそれでよしでした。しかし、後々にそれではお釈迦様が本当に言いたかったことではない。自分だけが悟ればそれでいいのではなく、他人の幸福を願い、すべての人を救うために悟りをひらくべきであるという利他主義の教えへと変化していきました。

法華経の中にたくさんの菩薩さまが出てこられます。菩薩さまが仏になるための修行に「自未得度先度他」自分一人の悟りのために修行するのではなく、まず他人を先に渡す、いうならば、自分のことはさておいてもまず他人のことを考えるという菩薩修行があります。

利己主義に陥ると必ず人は破滅を迎えます。ある程度の利己主義は必要ですが、どこかでブレーキをかけ、利他主義を持つ、そうすると、徐々に世間八法は消えて、自分の中にアンパンマンのような菩薩の心が生まれてくるでしょう。何しろ世間八法に捉われないのですから周囲の人の眼からも解放され、生き方も楽になるかもしれません。

アンパンマンが幅広くここまで人気なのは何かそういう菩薩の心をアンパンマンから感じ取れるからなのかもしれませんね。人にとって学ぶべき善き手本であるからでしょう。私達大人は子ども達に、やはりこのような生き方を見せて良い見本に成るようにしてあげなくてはいけませんね。

 

十月二十四日にお会式法要にて皆様にお配りする桜の花とお祖師様の綿帽子つくりをしました。当山の綿帽子や桜の花は、世話人様方が毎年集まってくださり、紙を切り、食紅で色を染めて花弁や葉を一枚一枚丁寧に作っていらっしゃいます。

日蓮大聖人がお亡くなりになられた時に悲しみのあまりに季節はずれの桜の花が咲き乱れたとうお話から、日蓮大聖人のご命日に合わせて行われる「お会式」では桜の花をつくり、飾ります。当山では、十一月八日 十一時からご報恩お会式法要を執り行います。なお、月例鬼子母神月例祭もあわせて執り行います。当日は、玉名 妙法寺副住職 濱崎義英上人によりますお説教がございます。なお、お参りいただいた方に、皆様の家庭のお仏壇のお祖師様の像の綿帽子とお会式桜、紅白饅頭を差し上げます。どうぞお誘い合わせてお参りください。

 十一月八日 十一時から

「宗祖日蓮大聖人お会式法要」

 ・法要 祈祷 法話 おとき・ 

 

先月、28日の仏教塾では1979年公開、萬屋錦之介主演の「日蓮」を見ました。その当時の時代背景や国を救うために法華経を広められた日蓮大聖人の御生涯、そして大聖人を支えられた人々の想いが非常に解りやすく、今見ても色あせることなく、30年以上前に作られたとは思えないほどの映画でした。

お命をおとされるほどの危機に何度もあわれても、その危機を救ってくれる人に必ず出会われる、そして、命を狙った人でさえも日蓮聖人に魅せられて信者となられていきます。非常に魅力的な人柄がこの映画から見ることができます。

「秋季彼岸法要」で放映しました続きは11月8日 11:00~「お会式法要」の際に、法要開始45分前くらいから放映いたします。

どうぞ、お楽しみにお参りください。

 

花火

| ちょっとしたお話 |

先日、近所の遊園地で行われた花火大会に行ってきました。毎年行われている花火大会ですが、毎年見る方の気分によっても違ってくるのか、その年によって色んな気持ちにさせてくれます。今年も、花火は夜空に様々な色とりどりの美しい模様を描いていました。昔から花火は夏の風物詩として人々の眼を楽しませていました。様々な説はあるものの外国より鉄砲伝来とともに日本に伝わり、江戸時代には花火を専門に扱う鍵屋と玉屋によって人々が楽しむ花火の文化が形成されたそうで、今でも花火を見て「たまや~」「かぎや~」と叫ぶのはその名残だそうです。自らを燃やして暗い空に美しく光を宿す花火、じっとみていると法華経の中にでてくるこんなお話を思い出しました。

妙法蓮華経薬王菩薩品第二十三のお話の中の主人公、「薬王菩薩」という菩薩さまが、前世で「喜見菩薩」という名前で仏さまに仕えていた時、喜見菩薩は法華経を学び苦行を耐えて、人に教えを説くために、相手に応じてふさわしい姿を自在に現すことができるという神通力を体得しました。そして、虚空の中から色々な花や香木を雨のように降らして自分を導いてくれた仏さまに感謝の心で供養しました。しかし、このような供養よりも自分の身をもって仏さまを供養する方が勝っていると考え、永い間あらゆる香油を飲み、仏さまの前で体中に香油を注いで自らの身を燃やしその光によって全世界を照らし出しました。その身体はその後、千二百年の間燃え続けてようやく燃え尽きました。その後、とある国の王様の子どもとして家に生まれ変わった喜見菩薩の前に仏さまが現れ、「私は今夜入滅するであろうから、あなたが塔を建てて供養しなさい」と告げられ、入滅されました。嘆き悲しみながら喜見菩薩は栴檀の薪で仏さまの遺骸を焼いてお骨を拾い集め八万四千もの塔を建て、その塔の前で自らの臂を燃やして灯りを点して七万二千年の間供養しました。そして、たくさんの数えきれないほどの人々に菩薩の心を発さし、悟りの境地へと導いたのです。喜見菩薩は自分自身が仏様を供養して自分が満足するためだけではなく、人々をも導くために自らが灯りとなられたのです。

 お彼岸の期間は二十三日の彼岸の中日の前後三日合わせて七日間、今私達が暮らす比岸の世界からご先祖様たちがおられる苦しみも悲しみもない彼岸の世界、その彼岸の境地でこちらの世界で生きるための六波羅蜜という六つの修行方法の中の一つ、いつも最初に言われるのが修行方法が「布施」行です。布施とは「誰かにものを施すこと」であり、自分の損得を考えずに誰かのために自らを犠牲にしてまでも誰かの為に動くことなのです。ろうそくを思い浮かべてください。ろうそくは自らを燃やして周囲を明るくします。暗い時は、その灯りが道を示してくれて人々に安心を与えます。

最近では暗いニュースが多く、暗いニュースが流れる度にどうしても私達も暗くなってしまいます。そんな時にこそ、この喜見菩薩のように、自らが灯りをともして周囲を明るくしていく生き方こそ大切でしょう。

明日9月23日 当山にて11時より秋季彼岸施餓鬼供養が行われます。卒塔婆をたて、故人に感謝の祈りを捧げて供養しましょう。

9月13日、地元の「四山神社」で毎年2月と9月に行われている御祭、「こくんぞさん」に行ってきました。ここの四山神社は虚空蔵菩薩が星に乗って降りてきたという伝説がある神社です。毎年行われている一年に二回、「こくんぞさん」と呼ばれる御祭が行われ、露店がたくさん並びます。昔と比べると参拝者の方も露店の数もだいぶ少なくなって寂しくなってきましたが、学校が終わる夕方くらいになると小学生たちがおこずかい片手に露店を楽しげに物見しています。私が小学生のころは平日「こくんぞさん」がある日、友達と「はよ、こくんぞさんに行きたかね-」と話していると「ピンポンパンポン」と校内放送があり、「本日はこくんぞさんの日です。皆さん地元の御祭に是非参加してください。今日は五時限目はお休みにします。」と校長先生が今では考えられないかもしれませんが粋なはからいをしてくださって、皆で「やったー」と御祭に行った記憶があります。

この「虚空蔵菩薩」、日蓮宗は無縁ではありません。日蓮大聖人がお若き頃清澄寺で修学されていた頃、虚空蔵菩薩堂で「日本第一の智者となし給え」と暇さえあれば籠って願をかけられ続けられ、その結果虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現れ、明星のような大宝珠を授けてくださったと伝えられています。

 

 

人口が徐々に減少し、高齢化が進むにつれて何かと活気がなくなっていくのはしょうがないことではありますが、この街で育ってきた気持ちとしては何とかまた、あの子どもの頃の賑わいをもう一度見たいと願ってやみません。

今日は8月20日、お盆のあわただしい時期も終わり、ほっと一息ついております。

お盆の時期は兄夫婦や姉夫婦家族も帰省しますもので、家の中もさらにあわただしくなります。

8月16日 当山にてお盆施餓鬼供養法要が執り行われました。お経の本をお配りし皆様にも読経に参加していただきました、ご参拝誠に御苦労さまでございました。

 

口癖

| ちょっとしたお話 |

私はよく、何か物事を行ってひと段落すると小さく「OK」と言ってしまう口癖があるのですが、最近2歳になった娘が、おもちゃを片付けた後頷きながら、小さく「OK」、歯を磨いてうがいをして小さく「OK」、着替えて「OK」と、何かと一人頷きながら「OK」、「OK」と・・・。教えたはずはないのですが、いつの間にか同じように私の口癖が娘にうつっていることに気がつきました。ジョン・ロックというイギリスの哲学者は「心の中には生まれながらに刻み付けられているものはない、つまり子どもは生まれた時はまだ何の観念も持っていない白紙の状態であり、教育によってさまざまな観念を獲得するようになる」こんな風に仰っております。確かに、子どもは生まれながらに個性は持ち合わせて産まれてきますが、その環境に左右され成長するに従って大きく変わっていくものです。だから赤ちゃんは、大人や自分より大きな子どもの行動をじっと見つめてしきりに観察しています。

白紙だからこそ私達大人の日々の習慣をしっかり観察し、それを真似るのですね。日本には昔から「子は親の背中を見て育つ」という言葉があります。保育園に務めていた頃のことです、子どもたちが大人の真似をする「ごっこ遊び」をして遊んでいると、必ずその「ごっこ遊び」の中にお父さんやお母さんが登場し、自分がいつも言われているであろう「・・したらだめよ」などの台詞が出てきたり、必ずと言っていいほど携帯電話やパソコンが出てきたり、よく観察しているなぁと感心したものです。

さて、子どもに「ご先祖を大切にしなさい」「命を大切にしなさい」とはよく言って口では教えることができても子どもが理解するのはなかなか難しいものです。ですが、お盆やお彼岸お墓参りの時期にはお子さんをお連れになって参られる姿をよく見ます。最初は見るだけであった子ども達もいつの間にか大人の真似をし、自然に自分たちだけで花をかえたり、掃除したり、手を合わせたりいつの間に大人がすることを自然に学んでいます。

妙法蓮華経方便品第二の中に「小善成仏」という教えが説かれます。これはどんな人間が、どんな些細な事でも、心から仏を信仰する気持ちを行いに表すならば、その人はそれだけでもう仏道を成じ、仏となったと同じであるよ、ということです。そして、その行いについての例えがいくつか説かれております。その中に、「子どもが遊びで砂を寄せ集めて仏塔をつくる真似をしただけでも、あるいは仏像に向かって礼拝し、または合掌する、または頭を下げるだけで、あるいはただ一度南無仏と唱えただけでも、彼は成仏しているのである」というところが出てきます。

祈っている姿、感謝している姿、そのものを直に子どもに見せ、同じように体験させていくと、きちんと子どもの中にその姿が刻まれて、ご先祖や亡くなった人を大切に想う気持ちが自然と生まれてくるものなのです。そうすると、命に敬意を持つという大切さや血のつながりや家族のありがたさを知ることができるようになるでしょう。

 

昔は子どもを連れてお寺に参られるのが多かったですが、最近は少なくなってきました。「子どもは騒いでしまうし、迷惑に感じるから」と感じられて遠慮されてる方もいらっしゃるかもしれませんが、子どもは騒ぐのが当たり前ですし、それよりもきちんとお参りする姿を見せ、体験させることがもっと大事な事です。お盆の時期になります。どうぞ、命の大切さやご先祖とのつながりを目に見える形で後世に教えていきましょう。

仏像には様々な種類があります。キリスト教などの他宗に比べて何故仏教では何故お釈迦さまだけを祀るのではなくて多数の本尊があるのでしょうか?実は、仏教の初期はお釈迦さまそのものを唯一信仰していました。しかし、長い年月を経るうちに、仏教も様々な影響を受けてそのありさまを変えていきます。従来の修行者の自らの悟りや救いを目的とした教えに対し、もっと広く悩み苦しむ多くの人々を救うために大乗仏教が生まれ、大乗仏教において、悩み苦しむ人を救うお釈迦の心の様々な側面を表してたくさんの仏が必要と考えられました。例えば死の不安を和らげる阿弥陀如来や病苦を治す薬師如来、怠け心を戒める菩薩、悪行を懲らしめる明王、様々な人の救いの為に数多くの仏が造られたのです。

6月の仏教塾では仏像の成り立ちや、仏像の組織図として「如来・菩薩・明王・天」に分けられて、様々な仏像にどのような意味があるのかをお話しました。先月7月28日の仏教塾では仏画の塗り絵をしました、参加者の方々は思い思いに仏画にお好きなように色鉛筆で色を塗って完成させました。