夏になったらコロナウイルスも落ち着くだろう・・・😄

ちょっとばかり期待していたのですが・・・😅

コロナウイルスの猛威がついに荒尾市や大牟田市、周辺の市までやってきましたね。

 

先日テレビで見たのですが、

コロナウイルスは一万年前には存在し、様々な動物を宿主として進化してきたそうです。

ウイルスというのは「生き物」か「生き物でない」のか🤔

様々な説があるようですが、一万年の時間をかけて、環境に適合しながら進化し続けているのですから、手ごわいのが当然ですかね・・・。

 

さて、妙国寺はコロナウイルス蔓延防止のため3月初旬から以下の対策をしております😄

*本堂入口に除菌セットを設置しております。

*安産祈願や、初参りなど、祈願や祈祷、供養は一組ずつ時間を空けて行っております。

*僧侶はマスクをして、お参りします。

*冷房を入れながら、換気の為、本堂の窓は開けております。

*お寺にお出でにならなくても、祈願、祈祷致します。その後、御札やお守りを郵送致します。その際にLINEなどのツールを使用し、リモートで行ってほしいというご要望にも応じます。

 

できるだけ、皆様のご心配が和らげるよう心掛けて行っておりますのでどうぞ、お気軽にお問い合わせください😀。

皆様、こんにちわ!
長雨から一転、今日はかなりの暑さですね😅

そして、大雨やコロナウイルスの影響で本当に今年は・・なんだか落ち着かない毎日ですね😅
本来なら、お子様向けのイベントや寺子屋。

遊びに来る、子ども達の友達👦👧

夏休みはお子様達の声で大変賑やかなのですが・・・😅

お寺も様々なイベントが中止になり、寂しい限りです😂


さて、8月の吉凶カレンダーができましたので掲載します。
どうぞご参考にされてください😄

今日は境内の仏像、「浄行菩薩さま」を紹介します

「菩薩」とは簡単にいうと、「仏になるために修行している人」のことです😀

菩薩は自らを律し修行し、そして何より人々を苦しみ悲しみから救おうと誓いを立てて絶えず活動していらっしゃる方です🌻

「あの人は菩薩のような人だ」

なんてよく言いますよね😀

「浄行菩薩さま」とは・・・

従地涌出品第十五のお経の中で、お釈迦様の呼びかけに応じて大地がパックリと割れて法華経を弘めるための使命を帯びた沢山の菩薩が湧き出てきます。

沢山の菩薩たちの中でお釈迦様の亡き後教えを広めていく使命をもたれた菩薩たちのリーダーの四人、四菩薩と呼ばれます😀

上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩の中のお一人です😀

浄行菩薩さまは、率先して世の人々を哀れみ、苦を除き楽を与える菩薩さまで、この世を浄化し、人々の罪や穢れを洗い清めて下さいます😄

水に関係の深い菩薩さまで、水が穢れや垢を清めるように、自らの穢れや苦しみの基である「煩悩」を洗い清めてくださるのです

古来より、身体の調子の悪いところを清行菩薩のお体を洗い清めながら一心に祈願すると功徳があると信仰されてきました。

大正6年7月から祀られていますので、もう100年以上この場所でお寺に来られた沢山の人達、そして街の歴史を見てこられたのですね。

本堂の正面にいらっしゃいますのでいつでもお参りくださいませ😀

この度の令和2年7月豪雨では、沢山の方々が被害に遭われました。被害に遭われた方々に謹んでお見舞い申し上げます。

被害に遭われた方々の生活と御心が一刻も早く穏やかになりますよう心からお祈りいたしております。

 

荒尾市、大牟田市も沢山の被害がありました🌧。

7月6日、昼間から降り続く雨が徐々に強くなり、子ども達の通う学校から連絡があり車で迎えに行くと、激しい雷雨🌩

あっという間に道路に水がたまり、至る所で道路が冠水し、普段使用している道路が次々に通行止めになりました。

その後も強い雨は降り続け、川が氾濫したり、道路が陥没したり、街全体が浸水の被害があったり、至る所で車が動かなくなったり。

 

その光景と次の日の光景は今までに見たことがないものでした😪

 

ちょっと前に「天気の子」というアニメ映画を見たのですが、激しい止まない雨で沈みゆく街、まさしくその光景を目の当たりにしたような感じでした😥

そもそも天気とは“天の気分”人の都合など構わず、正常も異常も計れん。湿ってうごめく天と地の間で、振り落とされぬようしがみつき、ただ仮住まいさせていただいているのが人間

 

「天気の子」で出てくる神主さんの台詞です、

確かに、天気はまさしく天の気分。人間の力でどうすることもできませんね。

だからこそ、命と生活を護るため、あらゆる自然災害は起こるものとし、心構えと準備を怠ってはならない☹

そんなことを改めて、思いました。

 

そろそろ梅雨も明けて欲しいものですね😫

昨日、28宿の吉凶カレンダーを作成しましたが・・・。

28宿って何さ🤔?

と、疑問に思う方もいらっしゃるでしょう・・・😄

28宿は元々中国古来の陰陽五行説から出ています。

太陽と月の動きを中心にすえた宇宙の運行と、すべての物体は五つの要素の組み合わせによって成立しているから、これらの動きと組み合わせを知れば、人間世界の吉凶をあらかじめ予測することができる🌌!!

 

というものです。

28宿は天の周囲に列する星のうち、東西南北の中から28のエリアに不均等に分けたものです。

月が地球の周りを1周する間に通る28の星座の区分を表わし、これを一日一日にあてはめられています。

そして、その日その日の吉凶を占うものです。

中国で生まれた、天文学・占星術ですね😄

 

角宿 亢宿 氐宿 房宿 心宿 尾宿 箕宿 斗宿 牛宿 女宿 

虚宿 危宿 室宿 壁宿 奎宿 婁宿 胃宿 昴宿 畢宿 觜宿 

参宿 井宿 鬼宿 柳宿 星宿 張宿 翼宿 軫宿     

 

これが28宿ですが、これがインドに伝わり、牛宿が削られ「宿曜経」として中国に逆輸入され、日本に伝わりました。

古来より、日蓮宗では27宿で判断しています。

 

一般的に、良い日か悪い日か判断するのは大安や友引、仏滅などの六曜かと思います。

しかし、六曜が一般的になったのは江戸時代後期であり歴史は浅いのです。

それまでは27宿が重要視されていたのです😄

 

宿曜経は空海さんが日本に伝えたと言われていますが、28宿の思想はなんと、飛鳥時代に中国から伝来し、飛鳥時代の古墳である高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれているそうですよ。

最近、お引越しの日など、どの日を選んだらよいですか?

などのお問い合わせが増えてきましたので・・・。

吉凶カレンダーを作ってみました😆

28宿を参考にしています。

どうぞご参考にされてください😀

水子供養とは何か🤔?

何故、水子供養が必要なのでしょうか☘?

 

実は・・・

 

「仏教では生命の誕生は受胎した時にあるとしています」

 

どういうことかと言いますと、仏教では人生の出発点をお母さんの胎内宿った時と見ます。

なので、お葬式の時など人の生涯を数える時に、満年齢ではなくて数え年で計算するのです😌

命の長さには様々な形があります🍀。

長い命もあれば、幼くして終わる命、働き盛りの時に終わる命、そして、お母さんの胎内で終わってしまったその命もまた同じ命です。

 

だからこそ、生命を授かった一人として供養して成仏を願うようにする必要があります😌

 

様々な事情があって、残念ながら水子になってしまったお子さんの為に心をこめて、仏さまの元で慈愛に包まれて幸せに暮らせるよう、一緒にお祈りしましょう。

 

そしてどうか、お母さん、自分自身を責めないでくださいね。

誰のせいでもありません。

今はしっかりと心と身体を休めて、大切にしてください。

 

妙国寺では、写真のようなお地蔵さんと一緒に卒塔婆を立ててお参りします。

お参り後はこのお地蔵さんはお持ち帰りいただいても構いませんし、妙国寺にてお預かりし、良い時にお参りに来ていただいても構いません。

赤ちゃんへのお供え物(お菓子など)もお参り時に一緒にお持ちください😌

過去に水子があり、供養していなかったという方もお気軽にご相談ください😀

 

供養は5000円と地蔵の人形のお金1000円

にてお受けいたします。供養の時間は20分~30分くらいです。

 

お電話(0968-62-2107)でもメールからでもかまいませんので前もってご予約ください。

6月に入り、あっという間に16日になってしまいました😅

子ども達の学校が始まると日常が戻ってきたように、また慌ただしい日々が始まりました😁

さて、今月の妙国寺の掲示板です。

 

似たような言葉ですが・・・・

昔見たアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の中でこんな台詞が出てきたのを思い出しました😀

 

「晴れの日は気分よく 雨の日は憂鬱 と教えられたらそう思い込んでしまう

 雨の日だって楽しいことはあるのに 受け取り方ひとつでまるで別のものに

 なってしまう脆弱なものだ、人の中の真実とはな」

 

「春雨」「五月雨」「白雨」「秋雨」「夕立」・・・💦

雨の呼び名というのは日本語で400語超えるともいわれているそうです。

古来より雨は私達にとって身近なものでもあり、情緒的なものだったのですね・・。

 

だからこそ、「雨は憂鬱、もう楽しくない・・」

と捉えてしまうにはもったいないですね😄😀

 

先ほどのエヴァの台詞。

「人の中の真実は受け取り方ひとつでまるで別のものになってしまう脆弱なものだ。」

本当にそうですよね。

 

お経の中に「諸法実相」という言葉が出てきます。

諸法とはあらゆる存在、実相とは真実の事です。

「すべてのものは真実であり、あらゆるものが最高の価値を持っている」

という意味です😀

 

つまりは・・

晴れだって最高だし!!

雨だって最高だ!!

楽しけりゃ最高だし!!

楽しくなかったって最高だ!!

 

って感じですかね・・。

私達を取り巻く環境や状況は変化し続けます・・・

良かったり悪かったり、普通だったり・・・。

これは当たり前のことです😅

 

しかしながら根本の私たち自身は何も変わらないのです。

私という存在がそこに有り続けているだけですね😃

 

だからこそ、全ての状況や環境をあるがままに受け止める。

楽しくても楽しくない状況でも、どんな逆境からででも、

 

そこに喜びと光を見つけていける😀

 

そんな人になっていきたいですね😀

皆様、こんにちわ😀
5月も今日で終わり明日から6月🐌
いよいよ梅雨の季節ですね

日蓮宗のお寺というと鬼子母神をはじめ、お寺によって大黒天、八大龍王、妙見菩薩を守護神としてお祀りしていますが、妙国寺には初代住職の頃から伝わる「守護神」がいらっしゃるのです😁

こんなお話が伝わっています🤔

大正の頃のお話しです。

初代住職が夕方いつもの様にお勤めをされ、部屋に戻ってふと庭を見られた時、泉水の向こうに甲冑を身につけた武将がこちらを見て立っておられました。  

「何か御用ですか?」

住職がお尋ねになると武将は、

「この辺りは合戦のあった地で我ら多くの武将が討ち死にをしており、そのまま放置されたままで成仏できなく迷っており是非共「お経」を頼みに参った者、願い叶わば必ずこの地を守護すべし。」

と申されたそうです。

住職は「こちらへどうぞ」
と本堂の方へ導かれ、懇ろに「お経」をお上げになり、弔われたそうです。

そして、武将に「辰光院殿龍雲日城大居士」と授けられました。

今日も妙国寺の一角に妙国寺の守護神として祀られています😀

このお経は「妙法蓮華経如来寿量品第十六」中の510文字の箇所

「自我偈(じがげ)」と言われます。
法華経の教えの中で最も大切な箇所です😀

少し解説しますと・・・


お釈迦様は一般に今から三千年前インドで生まれ、多くの迷い苦しむ人を教え導き、八十歳で亡くなられたと言われていますが・・・

お釈迦さまは自ら永遠の命を持たれ、いつでもどんな時でも目には見えなくても常に私達の傍で私達を教え導かれていらっしゃることを説かれました。
そしてお釈迦様が常にすべての人にとって温かい父親のような存在であり、私達を仏と同じ最高の悟りに導きたい、速やかに仏の身へと導きたい。そのことばかり願っている。

そんな事を仰っておられるお経です😀

「妙法蓮華経如来寿量品第十六」

 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命

時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅

以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者

我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰

因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫

常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳

宝樹多花果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽

雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽

憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁

過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者

則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量

久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量

寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑

当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故

実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者

為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生僑恣心

放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道

随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就仏身

 

日本語訳(お釈迦様のお言葉)

 

私が悟りを開いて仏となってから今日に至るまで経過した時間は数え切れません。

その間ずっと、真実の法を説き続け、数えようもない程大勢のものを教え、仏の道に入らしめようと導きました。

 

生きとし生けるもの全てを救うために、方便として涅槃(死ぬ)に入ったように見せかけてきました。

しかし、私は本当は死んでいないのです。

 

たとえ姿は見えなくても常にここにいて、真実の法を説き続けているのです。

 

私は常にこの場所にいるのですが、神通力によってわざと、迷いのために顛倒(何事も自分中心に考え、物事の本質を見ようとしない)している人々に対してその姿が見えないようにしているのです。

 

というのは、人々は私が死んでしまった姿を見ることによって、恋い慕う気持ちをおこし、誰もが私の遺骨を供養して、ぜひとも生前の私に会いたいとう心を生ずるからなのです。

 

それによって人々は、いずれ心から私の教えを信じ、素直で心優しくなって、ひたすら私の姿を見たい、私の教えに耳を傾けたいと思って、自分の生命も惜しくないほどになるでしょう。

 

その時にこそ、私は多くの弟子たちとともに、霊鷲山に姿を現すのです。

 

そして、私は常にここにいて、決して死にはしないと教え諭すのです。

方便によって、何度でも、死んでは再び蘇るように見せかけるのです。

 

だから、心の底から私を敬って、信じて、教えを願う人がいるのであれば、私はそこに姿を現して、私が得た最高の教えである法華経を説きましょう。

 

しかし、あなた達はこのような事情を知らないで、かたくなに「もうお釈迦様は死んでしまわれた」と思い込んでしまっています。

 

私はあなたたちが迷いによって苦しみの海に沈んでいることを知っています。

しかし、すぐには姿を現しません。

 

なぜならば、このことが私のことを仰ぎ慕う心を育むのです。

 

苦しみぬいた結果、必ずや私を恋い慕い、渇仰する時がくるでしょう。

その時にこそ、初めて私はあなたたちの前に姿を現してこの最高の教えを説くのです。

 

私があなた達を慈しみ、駆使する神通力とは、こういうものなのです。

 

私のあなた達を慈しんで発揮する不可思議な力とはこういうものなのです。

 

私は計り知れない時間、霊鷲山のみならず、いかなる所であろうとも、いつでもどこでも、休むことなく常に教えを説いているのです。

生きとし生けるものが、この世界が滅びる時がきて、大火で焼き尽くされていると見たり思ったりしている時でも、私のこの娑婆国土は常に安らかで天上界の神々や人々で満ち溢れています。

 

そこには、天人が舞い踊り、緑したたる樹木があり、色々な宝石で飾られた豪華絢爛な建物が沢山あるのです。

宝石でできた樹木や、花や実をつけた樹木が沢山あって、生きとし生けるものはみな楽しく暮らしているのです。

 

空の上では、常に神々が太鼓を打ち鳴らし、様々な楽器を奏で、たとえようもなく美しい花が雨のように、仏やその弟子たちの頭上に降り注いでいるのです。

 

私の浄土は常に美しく、決して破壊されることはないのに、同じであるこの場所を、迷える人々は劫火によって焼き尽くされ、様々な憂いや恐れ、苦悩がみちあふれている所のように見て苦しめられています。

 

なぜそのように見えるのかというと、罪深い人々は過去世から積み重ねてきた悪業の因縁によって、阿僧祇劫という途方もない長い時間を生まれ変わり死に変わりしてきた間に、仏・法・僧という、私の名前も、私の教えも、そして、私につき従う者たちの存在すら耳にしようとしなかったからなのです。

 

色々な種類の良き行いをなし、優しく正直で素直な者たちは、私が今ここにいて、真実の法を説く姿に出会うのです。

ある時は、こういう者たちのために、仏の寿命が無限だと説くのです。

長い時間をへて、やっと仏にであうことができた者たちには、仏とは出会いがたい存在だと説くのです。

 

私の智慧の力とはこういうものであり、その光はどこまでも届いて限界はなく、さらに寿命も無限であって到底あなた達には計り知れないものなのです。この力が私に備わったのは過去の生において菩薩としての行いを積み重ねた結果なのです。

 

あなたたちは決してこのことに疑いを懐いてはなりません。

今後、二度と永久に疑いの心を捨てなさい。

仏(私)の語る言葉はすべて真実であり、決してうそ偽りはないものなのです。

 

このことは、すぐれた医者が心の顛倒(何事も自分中心に考え、物事の本質を見ようとしない)した我が子達を救う為に講じた手立てと同じです。それは、本当は生きているのに「父は死んだ」と伝言させて子供たちを悲しみのどん底に突き落とし、その衝撃でついに子供たちを本心に立ち返らせたという方法です。

医者がとったその治療の方法を誰も嘘偽りであるとは責めることはないでしょう。

 

私もまた、それと同様に一切衆生の父のような存在で、人々をあらゆる苦しみや患いから救う者なのです。

 

本当は、私はこの世に存在し、教えを説き続けているのですが、煩悩と迷いが消えず欲望も多く、 怒りや妬みなど負の心情に満ちて心が顛倒している人を察知して、本当はここに存在しているのに、死んでしまったと言うのです。

 

私が常にこの世にいて、あなたたちがいつでも私に会えることができたならば、私に甘えていつでも救いの手を差し伸べてくれると思うでしょう。それによってわがまま勝手に、やりたい放題の事をし、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲といったあらゆる欲望に執着し、とめどなくおぼれ、ついには悪道に堕ちてしまうことを憂えたからなのです。

 

私は常に人々がそれぞれ、正しい道を修行しようと志を持つ者と、そうでない者がいることを十分に知り抜いています。

 

その為にそれぞれの個性に応じて救うべき手立てを講じてさまざまに教えを説いているのです。そして常に、どのようにして人々を仏の最高の悟りに導き、速やかに私と等しい仏の身にさせることができるのだろうかと、そのことばかり願っています。