» 2020 » 5月 » 20

「自我偈(じがげ)」とは・・・

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このお経は「妙法蓮華経如来寿量品第十六」中の510文字の箇所

「自我偈(じがげ)」と言われます。
法華経の教えの中で最も大切な箇所です😀

少し解説しますと・・・


お釈迦様は一般に今から三千年前インドで生まれ、多くの迷い苦しむ人を教え導き、八十歳で亡くなられたと言われていますが・・・

お釈迦さまは自ら永遠の命を持たれ、いつでもどんな時でも目には見えなくても常に私達の傍で私達を教え導かれていらっしゃることを説かれました。
そしてお釈迦様が常にすべての人にとって温かい父親のような存在であり、私達を仏と同じ最高の悟りに導きたい、速やかに仏の身へと導きたい。そのことばかり願っている。

そんな事を仰っておられるお経です😀

「妙法蓮華経如来寿量品第十六」

 自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇

常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫

為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法

我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見

衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心

衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命

時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅

以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者

我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰

因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫

常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時

我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳

宝樹多花果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽

雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽

憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁

過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者

則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量

久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量

寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑

当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故

実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者

為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生僑恣心

放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道

随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就仏身

 

日本語訳(お釈迦様のお言葉)

 

私が悟りを開いて仏となってから今日に至るまで経過した時間は数え切れません。

その間ずっと、真実の法を説き続け、数えようもない程大勢のものを教え、仏の道に入らしめようと導きました。

 

生きとし生けるもの全てを救うために、方便として涅槃(死ぬ)に入ったように見せかけてきました。

しかし、私は本当は死んでいないのです。

 

たとえ姿は見えなくても常にここにいて、真実の法を説き続けているのです。

 

私は常にこの場所にいるのですが、神通力によってわざと、迷いのために顛倒(何事も自分中心に考え、物事の本質を見ようとしない)している人々に対してその姿が見えないようにしているのです。

 

というのは、人々は私が死んでしまった姿を見ることによって、恋い慕う気持ちをおこし、誰もが私の遺骨を供養して、ぜひとも生前の私に会いたいとう心を生ずるからなのです。

 

それによって人々は、いずれ心から私の教えを信じ、素直で心優しくなって、ひたすら私の姿を見たい、私の教えに耳を傾けたいと思って、自分の生命も惜しくないほどになるでしょう。

 

その時にこそ、私は多くの弟子たちとともに、霊鷲山に姿を現すのです。

 

そして、私は常にここにいて、決して死にはしないと教え諭すのです。

方便によって、何度でも、死んでは再び蘇るように見せかけるのです。

 

だから、心の底から私を敬って、信じて、教えを願う人がいるのであれば、私はそこに姿を現して、私が得た最高の教えである法華経を説きましょう。

 

しかし、あなた達はこのような事情を知らないで、かたくなに「もうお釈迦様は死んでしまわれた」と思い込んでしまっています。

 

私はあなたたちが迷いによって苦しみの海に沈んでいることを知っています。

しかし、すぐには姿を現しません。

 

なぜならば、このことが私のことを仰ぎ慕う心を育むのです。

 

苦しみぬいた結果、必ずや私を恋い慕い、渇仰する時がくるでしょう。

その時にこそ、初めて私はあなたたちの前に姿を現してこの最高の教えを説くのです。

 

私があなた達を慈しみ、駆使する神通力とは、こういうものなのです。

 

私のあなた達を慈しんで発揮する不可思議な力とはこういうものなのです。

 

私は計り知れない時間、霊鷲山のみならず、いかなる所であろうとも、いつでもどこでも、休むことなく常に教えを説いているのです。

生きとし生けるものが、この世界が滅びる時がきて、大火で焼き尽くされていると見たり思ったりしている時でも、私のこの娑婆国土は常に安らかで天上界の神々や人々で満ち溢れています。

 

そこには、天人が舞い踊り、緑したたる樹木があり、色々な宝石で飾られた豪華絢爛な建物が沢山あるのです。

宝石でできた樹木や、花や実をつけた樹木が沢山あって、生きとし生けるものはみな楽しく暮らしているのです。

 

空の上では、常に神々が太鼓を打ち鳴らし、様々な楽器を奏で、たとえようもなく美しい花が雨のように、仏やその弟子たちの頭上に降り注いでいるのです。

 

私の浄土は常に美しく、決して破壊されることはないのに、同じであるこの場所を、迷える人々は劫火によって焼き尽くされ、様々な憂いや恐れ、苦悩がみちあふれている所のように見て苦しめられています。

 

なぜそのように見えるのかというと、罪深い人々は過去世から積み重ねてきた悪業の因縁によって、阿僧祇劫という途方もない長い時間を生まれ変わり死に変わりしてきた間に、仏・法・僧という、私の名前も、私の教えも、そして、私につき従う者たちの存在すら耳にしようとしなかったからなのです。

 

色々な種類の良き行いをなし、優しく正直で素直な者たちは、私が今ここにいて、真実の法を説く姿に出会うのです。

ある時は、こういう者たちのために、仏の寿命が無限だと説くのです。

長い時間をへて、やっと仏にであうことができた者たちには、仏とは出会いがたい存在だと説くのです。

 

私の智慧の力とはこういうものであり、その光はどこまでも届いて限界はなく、さらに寿命も無限であって到底あなた達には計り知れないものなのです。この力が私に備わったのは過去の生において菩薩としての行いを積み重ねた結果なのです。

 

あなたたちは決してこのことに疑いを懐いてはなりません。

今後、二度と永久に疑いの心を捨てなさい。

仏(私)の語る言葉はすべて真実であり、決してうそ偽りはないものなのです。

 

このことは、すぐれた医者が心の顛倒(何事も自分中心に考え、物事の本質を見ようとしない)した我が子達を救う為に講じた手立てと同じです。それは、本当は生きているのに「父は死んだ」と伝言させて子供たちを悲しみのどん底に突き落とし、その衝撃でついに子供たちを本心に立ち返らせたという方法です。

医者がとったその治療の方法を誰も嘘偽りであるとは責めることはないでしょう。

 

私もまた、それと同様に一切衆生の父のような存在で、人々をあらゆる苦しみや患いから救う者なのです。

 

本当は、私はこの世に存在し、教えを説き続けているのですが、煩悩と迷いが消えず欲望も多く、 怒りや妬みなど負の心情に満ちて心が顛倒している人を察知して、本当はここに存在しているのに、死んでしまったと言うのです。

 

私が常にこの世にいて、あなたたちがいつでも私に会えることができたならば、私に甘えていつでも救いの手を差し伸べてくれると思うでしょう。それによってわがまま勝手に、やりたい放題の事をし、財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲といったあらゆる欲望に執着し、とめどなくおぼれ、ついには悪道に堕ちてしまうことを憂えたからなのです。

 

私は常に人々がそれぞれ、正しい道を修行しようと志を持つ者と、そうでない者がいることを十分に知り抜いています。

 

その為にそれぞれの個性に応じて救うべき手立てを講じてさまざまに教えを説いているのです。そして常に、どのようにして人々を仏の最高の悟りに導き、速やかに私と等しい仏の身にさせることができるのだろうかと、そのことばかり願っています。