» 2010 » 3月

 本日 21日(日) 彼岸の中日 無事に「春季彼岸施餓鬼法要」が執り行われました。

ご参詣誠に御苦労さまでございました。

本日皆様の供養はご先祖様方も大変喜ばれていらっしゃいます。

お彼岸に仏道修行に参加された功徳は、仏様がきちんと見てくださっています。きっと、よりよい生き方を仏様が導いてくださることでしょう。

境内の桜の花も少しずつ咲き始めました。暑さ寒さも彼岸まで、いよいよ春ですね!!

さて、次回は

4月8日 お釈迦様の誕生日に「花まつり・月例鬼子母神祭り」

を11:00から執り行います

 

皆様に誕生仏に甘茶をかけていただき、お釈迦様の誕生日をお祝いします。 

甘茶もお配りしますのでどうぞ、お気軽にご参拝ください。

暑さ寒さも彼岸までとは昔の人はよくいったもので、彼岸に近づくにつれ暖かい日、寒の戻りを繰り返しながらようやく本格的に春の訪れを感じるようになってまいりました。

さて、春の彼岸の期間は太陽が真東から昇って真西に沈んでいく昼と夜の時間がちょうど同じになる彼岸の中日である春分の日を中心に一週間の期間と定められています。

 こうした、どっちにも偏らないで中間の状態である、という自然現象とお釈迦様の説かれた「中道」の思想が結びついてお彼岸は仏教行事となったようです。さて、お釈迦さまが説かれました「中道」という思想はいったいどん思想なのでしょうか?

私達は時折偏ったものの見方をしてしまいがちです。正しいとか、悪いとか、好きだとか嫌いとか。気をつけていても、いろんな情報や情念によって自分の立ち位置が、あちらへ傾いたりこちらへ傾いたりと変化しがちです。そのような生き方をしていると苦しみというのは増す一方なのですから、どちらかに傾いてしまうようなこだわりを捨て、大きな目線で物事をとらえて、ゆったりとした道を歩みなさいよと、お釈迦様は苦行と楽行という両極端な道を避けて、どちらにも傾かない「中道」という道を歩むことで「仏陀」になられたことを示されました。

どちらにも傾かない思想。言ってみれば簡単ですが、実際行動するとなると難しい・・。しかし、大丈夫です。仏様は私達にきちんと「中道」という道を歩み安くしてくださっています。皆様いつもお参りされるように合掌してみてください。どうですか?その合掌は身体の丁度真ん中にきませんか?人間の右手というのは清浄の手、左手というのは不浄の手を表します。人間は清濁兼ね備えた存在でして、どちらかに傾いてしまうと、例え清いほうでも巡り巡って人間のエゴイズムを生んでしまうのです。なので、その二つ、清濁合わせて合掌し、それが身体の中心にくることによって、どちらにも傾かず、お釈迦さまのように、「中道」の生き方をしましょう。と仏様は合掌に示されているんです。

 彼岸は先祖供養の期間でもありますが、自分自身を見つめなおす大事な仏道修行の時期でもあるわけです。心沈めて合掌して、「自分はどちらかに傾いてないだろうか?」問いかけながら「中道」の思想で心穏やかにすごしたいものです。

当山妙國寺の100周年記念事業として行った

「大乗山妙國寺壱百年の歩み ~妙國寺創立100周年を迎えて~

の製本が終了致しました。

文章をお願いした総代長 上野正見様 総代 早起圭彦様 前総代 酒田義春様、製本に携わり協力してくださった檀信徒の方々、ありがとうございました。この本は21日の春季彼岸施餓鬼法要にて配布する予定です。

 明治42年に開基上人がこの土地に満田教会として今日の妙國寺を開設されてから100年。お寺の歴史を紐解いていくということは、その時代の人たちの想いを知ることでもありました。小さな教会所として開設され、寺号を受けたのが昭和19年、この地域と人の移り変わりとともに、第二次世界大戦や炭鉱の隆盛と衰退、昭和38年11月9日に起こった458名の死者を出した三井三池炭鉱粉塵爆発事故、歴史の大きな事件があり、お寺に訪れる人々の喜びや悲しみ、そして願いを受け止めながら、壱百年の間、この妙國寺はたくさんの人々を迎えて、そしてたくさんの人々を見送ってきました。

「いつでも変わらずそこにいる。」

「そして、笑顔になれるほとけさまの教えがそこにはある。」

そんなお寺として、いつまでも愛されるお寺でありますよう尽力して参ります。

皆様これからも共に歩んでまいりましょう。

                       

 

彼岸とは、インドの原語パーラミターの訳で「到彼岸」の略称で悟りの世界を指しています。

日本では古来より春分の日をはさんで前後一週間を「お彼岸」として此岸(迷いの世界)から彼岸(悟りの世界)へ渡る為の仏道修行の期間とされてきました。今日では昼と夜の時間が等しい日を「春分の日」とし、法律では「自然をたたえ、生き物を慈しむ日」と定められています。

私たちは、この「お彼岸」にあたり大自然の恵みと、自分が今生かされていることを先祖に感謝して、供養の法要や墓参りをするとともに、自らも彼岸に渡ることができるように精進しなければいけません。

彼岸の入りである18日には、仏壇を清めて、花や果物、故人の好物などをお供えしましょう。彼岸団子やおはぎ、五目ずしなどを仏壇あるいはお墓にお供えしたりします。お墓参りはできることなら彼岸の中日である春分の日、21日に 家族そろってお参りください。21日は午前11時から当山にて 春季彼岸施餓鬼法要を執り行います。

彼岸の期間は迷いのある私たちの住む娑婆世界と亡くなった故人、御先祖さまや仏さま達がおられる悟りの世界が最も近づく期間です。

お題目を唱え、法話を聞き、ともにおときを食べて仏道修行し、卒塔婆を立てて故人に感謝の祈りをささげましょう。

 

三月二十一日(春分の日)  午前十一時より

        ・法要 法話 おとき

 

 卒塔婆は受付にてお申し込みください。

どなたでもお参りできます、お気軽にどうぞ。 

笑顔の効能

| ちょっとしたお話 |

最近、もうすぐ9カ月になる娘が早くも、夜遊びするようになってしまいまして・・・。

深夜みんなが寝静まった頃、ゴソゴソという物音で目を覚ますと布団から這い出しておもちゃを取り出して遊ぼうとしている・・・・。

「何しよっと~」と言うと、したり顔でにやぁぁぁぁ~と笑う。

「もう寝るよ~」と言うと、にたぁぁ~と笑いながら首をブンブンブン。

その笑顔に負けて「全く、しょうがないなぁ~」

はぁ~、笑顔に負けてしまった・・・。と思いながら一緒に遊んで一緒に笑うとその時は眠気も吹き飛びますが結局寝不足・・・。子どもの笑顔というのは不思議なものです。

 ついこの前ショッピングセンターに買物に行った時の話です、レジの横のベンチに独りで寂しそうに座っていたおじいちゃんのとこへ、近くに座っていた親子連れのまだよちよち歩きの男の子が近寄っていきました。そして、おじいちゃんに向かってニコっと笑ったんです。そうすると、そのおじいちゃんも自然にニコっと笑い、男の子は手を振り、おじいちゃんも手を振る。ただそれだけのことだったのですが、独り寂しそうに座っていたおじいちゃんは、幸せそうな顔をして「バイバ~イ」と男の子に手を振りながら帰っていかれました。

 子どもの笑顔は見ている私たちを幸せにしてくれます。元気がない時は元気をくれたり、イライラしている心を和ませてくれたり、心と体の疲れも子どもの笑顔を見るとどこかへ吹き飛んでしまいます。この子のために頑張ろうと思うなら、人は辛いことも耐えたりすることもできるんですね。

 しかしですよ、よくよく考えてみてください。私達大人は生まれながら大人という訳ではないんですね。もちろん、子どもの頃があったわけでして、私達が子どもから幸せな気持ちをもらってるのと同じように自分も誰かを幸せな気持ちにしてきたわけなのです。ということを考えると、必ずどんな人にも、人を幸せにする力というのは平等にあるはずなのです。

 法華経の中にこんなお話が出てきます。

 ある人が親友の家に行って、酒に酔い潰れて寝てしまいました。親友はどうしても行かなければならない用事があり、酔いつぶれて寝込んでしまった友人の衣服の裏に、値のつけようのない宝珠を縫い付けて出かけたのです。ところが、その人は酔いつぶれて寝込んでしまっていたから、親友のそうした行動には全く気がつかなかったのです。彼はその後目覚めて起き上がると、あちこち巡り、他国に至り、衣食のためにたいへん苦労し、生活も困窮していました、「まぁ、自分の生活はこんなものだろう。」と満足していました。その後、親友は彼と再会し、彼の様子を見てこう語ったのです。

 「友よ、君はどうして衣食のためにこのようなひどい状態になってしまったのだ。私は昔、君が安楽になれるように、あらゆる欲求を満たしてあげようと、値のつけようもない立派な宝珠を衣服の裏に縫い付けていたではないか。それは現に今もあるんだよ。それなのに、君はそれを知らないで、あいかわらず苦労して憂い悩んでいるが、それはとても愚かなことだ。君はこの宝珠を必要なものと換えることができるんだから、そうしなさい。そうすれば、常に想い通りになり、何不自由なく過ごすことができるのだから。」

 このお話は、五百人弟子授記品というお経の中で、お釈迦様の五百人のお弟子たちがお釈迦様から「授記」といいまして、あなたは将来仏になれるんだよという証明を受け、お弟子達は「値のつけようもない立派な宝珠」つまり、自分もお釈迦さまと同じように仏になれるんだという可能性を自分らも知らない間にお釈迦様から頂いていたのか。ということに気付いた喜びを例え話にしたものなのです。この仏になれる可能性のことは、「仏性」と呼びます。

 ここで出てくる親友はお釈迦様、そして酒に酔い潰れた男は五百人の弟子であり、同時に現代、五百人の弟子たちと同じように、こうしてお釈迦様の教えに触れている私達のことでもあるのです。私達は気付かないけれども、人間として生まれてきたその時からお釈迦さまから「値のつけようもない立派な宝珠」、つまり仏性を頂いて生まれてきているのです。

 「仏性」だれしも生まれながらに仏になる可能性を皆持って生まれてきたのだよ、と一言で言いましても、何か漠然としていてわかりにくいですね。簡単に言いますと、仏様というのはどんな人にも手を差し伸べてその人を幸せにする力を持たれています。 

 子どもの頃に持っていた私たちに平等に与えられたどんな人をも誰であろうと幸せにする笑顔の力、この笑顔の力こそが仏さまから私達が与えられた「値のつけようもない立派な宝珠」であり、「仏性」であると思うのです。

 そうは言っても、子どもの頃の笑顔と今の自分の笑顔は違うしな・・・・と思われる方もいらっしゃるでしょう、しかし、笑顔というのは見ている人も自分も元気に幸せにさせる効能があるんです。辛い時や腹が立った時、どうぞ何も考えず童心に戻って笑ってみてください。笑うというのは医学的に精神的にも肉体的にも良い効果が働くそうです。

 その笑顔の中には必ず仏様から頂いた立派な宝珠があり、傍には仏様がいらっしゃるはずです。

 お釈迦様は人が人を幸せにする力を誰もが持っていることに気づきなさいよ。と常に説かれておられるのです。

 自分には仏様から頂いた「仏性」が備わっているんだと胸を張って毎日を笑顔で自分の仏性を呼び起こしてそして、自分が笑顔になることによって相手も笑顔にして相手の「仏性」も呼び覚まして安穏に毎日を楽しく生きていきましょう。