法華経『如来寿量品第十六』の中に「常に悲観を懐いて心遂に醒悟し」という言葉が出てきます。「どうしようもなく深い悲しみに打ちのめされ、どうしようもない切羽に立たされてはじめて、人はその悲しみの底から迷いの眼がひらかれてくる」というお釈迦様の言葉です。

私達は日々生きていくうえで、なんで私がこんな目に・・・、なんで私の愛する人が何でこんな悲しいこと出来事に・・・ということは、必ず誰にでも起こります。

愛する人の急な死であったり、病気だったり、事故だったり、男女の別れであったり、自問自答して悲しんで悲しんで、自分を責めたり、原因を探して誰かにあたったり、「あの時にああすればよかった、こうすればよかった・・・」悔やんでみたり、その悲しみは様々です。

そんな時、お釈迦さまは「その悲しみは無駄ではないよ、悲しみの中からこそ得るものもある。そこから悟れることもある、悲しんで悲しんで、その悲しみの底からこそ、世界が開かれてくるのだよ」と、このように私たちに教えてくださっています。

私たち人間は何かを失ってしか気付けないことがたくさんありますね。病気になって初めて普段の健康のありがたさがわかったり、誰かを亡くして、失って、初めてその大切さに気がついたり。その人が自分に遺してくれたものに気がついたり、悲しみによって気づいたことはその後の自分の人生にとってのなによりの道標になります。

だからこそ、私たちは悲しみとその悲しみから得たものを大切にしていかねばならないのです。悲しみを否定するのではなく向き合ってこそ、それは得られるものでしょう。

そこで得たものはきっと、仏さまが私たちに与えてくださった、この先何かまた自分の中に悲しみが起こった時にまた立ち上がれる手立てであり、同じような悲しみで苦しんでいる誰かを救うことのできる手立てであると思うのです。

悲しい出来事というのはいつまでも続くことはありません。「法華経を信じる人は冬の如し、冬は必ず春となる。未だ昔より聞かず見ず、冬の秋へと返れることを、未だ聞かず、法華経を信じる人の凡夫となることを」日蓮聖人もこのように仰っています。

深い悲しみが起こった時、必ず仏様がいつもそばにいてくださっている。見てくださっている。そしてこの悲しみから何かを得て、そして生きていく。そう思い、信仰を胸に、今を生きていきましょう。

誰にだって必ず朝は訪れ、春は訪れ、その悲しみが和らぐ時が来ますから・・・