法華経の熱心な信者であった宮沢賢治人の宮沢賢治に「雨ニモ負ケズ」という有名な詩があります。東北地方で貧しい農民たちと生活をともにした賢治が、その生き方に感銘を受けこういう人になりたい、と自分にいいきかせた素朴で力強い詩です。
そのパロディーに「雨ニモアテズ」というのがあります。賢治のふるさと・岩手県盛岡市の小児科の医師が学会で発表したものだそうです。職業上多くの子供たちに接していて、まさにぴったりだと思ったといいます。作者はどこかの校長先生だそうです。
雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
朝カラ アクビヲシ 集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
日照リノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ
まさに、現代の子どもの様子をうまく表した詩であると思います。
子どもの教育方針として最近メディアではさかんに、「子どもは褒めてのばしなさい!!」この言葉をよく耳にします。
教育現場でも家庭の中でも今、まさに「褒めて伸ばす教育」というのが主流になってきているようで、以前私が勤めていた保育園でも「子どもは褒めなさい。大げさでもいいから身体をつかって褒めなさい!!」と、盛んに上司に言われていました。
自分が子どもの頃は先生や両親に叩かれるのも怒られるのも当たり前、近所でいたずらをすれば怒られたし、テストで悪い点とっても怒られたし、悪いことをすれば素直に「ごめんなさい」と謝ったものです。
今は時代が違いますから。とよく有識者やコメンテーターがテレビで言っています。うかつに子どもを叱ればその親から逆上されるし、子どもから逆上されて、事件にまで発展してしまうのも度度です。子ども自体も、親もナイーブになってしまい、叱ること、叱られることが精神的な苦痛になってしまうようです。確かに、褒めることは大切です。「~はダメ」「~だからダメ」などの否定的なマイナスな言葉しかかけられないような育て方は子どもの自尊心や人格を酷く傷つけます。褒められることによって子どもは自分自身を認めてもらえる喜びを味わい、物事の達成感を実感することができて、成長するのは間違いありません。
しかし、この褒める育て方、この風潮があまりにも強くなりすぎることは、あまり良い影響を子どもや親、教育者、保育者に与えるとは思えないのです。
実際「ほめて伸ばす教育」が主となって行われた場合、「誰かが褒めてくれないと、誰かが見ているところじゃないと、善い事というのはやっても意味がないんじゃないかな?」という考えを生みださないでしょうか?そして親や教育者にしても「叱ってはいけないのだ、ここでイライラしてはいけない。」という考えに捕らわれ過ぎるとかえって自分の身を締め付け、良い教育などできないのではないでしょうか?自分の経験上、新人の教育者や保育者が叱らずに子どもの集団を育てるというのはかなり難しいことだと思います。
ならばこの先どのような教育が大切なのでしょうか?
法華経の最後の章、妙法蓮華経普賢菩薩勧発品において、お釈迦さまは法華経の教えを修行するうえにおいて四つの大切な項目を示されました。その四つの教えの中の一つに「諸々の徳本を植えなさい」ということが説かれています。徳の本を植えるということは、善根を植える、陰徳を積むということです、言いかえれば人が見ていない時こそ良い事をしなさいということです。いくら立派なことをしても「自分がやった」ということをひけらかしているようではいけません。人に褒められようが褒められまいが、そんなことは関係なく人の見ていないところでこそコツコツと善い事をする。
草や木が上に伸びていくためには、大地にしっかりと根を下ろさなければなりません。どんな場所にでも力強く黄色い花を咲かせるタンポポの花もその根は深くしっかりと大地に根ざしています。天高く伸びる大木もまた、大地にしっかりと根を生やしています。
褒めることも叱ることも自分を今評価してくれている誰かが見てくれていることを前提としています。しかし、このように人の見えないところにこそ根を生やすという生き方を教えることこそ今の時代に必要な教育であると思われます。
自分の祖父母の時代、子ども達は「誰かが見ていなくても、おひさまや、ご先祖さまはちゃんとみていらっしゃる」こう言われて子どもたちは育ってきました。今の時代、子どもの教育にはこの思想が欠けているのではないでしょうか?誰かが見ていなくても、ちゃんと自分を見てくれている存在がある、そして大きな優しさで護ってくれている存在がある。このことを教えることこそ大切な教育であり、宗教教育ではないでしょうか。