» 2010 » 1月
菊房数珠 装束数珠
先日、月回向に言った時、とある檀家さんが、
「つい先日買った数珠がもう切れてしまいました、何か悪いことが起こるのでしょうか?」と、心配気に仰っていました。
なるほど・・。
下駄のハナオが切れたら縁起が悪いという昔ながらの言い伝えのような感じなのでしょうか・・。 考えてみると私たち僧侶としては数珠というのは毎日当たり前の様に使用していますが、普段から数珠を毎日のように使っているという方はなかなかいらっしゃらないでしょう。
お通夜かお葬式、法事の時に使う程度でしょうか・・・今は葬祭場で数珠のレンタルもしていますし・・・。自分の数珠というのを持っていらっしゃる方も少ないのではないでしょうか?そんな貴重な存在の数珠が切れてしまったら。確かに、良い気分ではありませんよね・・・。
「いやいや、意外と数珠って切れたり、ほつれたりするものですよ!私なんか毎日使っているでしょう?案外そういうことってあるもので、その度に悪いことが起こっていたら、悪いことだらけになってしまいますよ!大丈夫です!それだけ熱心にお詣りをされているということですよ!仏具屋さんに持っていけば直していただけますよ。」
と、その場は笑い話に終わりましたが・・・。
さてさて、数珠の歴史というものは実は古く、3500年以上前から存在するそうです。数珠は古来より仏様と心を通い合わせる道具として広く使用されてきました。数珠にはこんな由来があります。
お釈迦様が霊鷲山という場所でお説教をされていたとき、ある国の王様がお釈迦さまを訪ねてきました。
「お釈迦様、自分の国は小さく、そして盗賊も多く、疫病も流行っています。そして人民は非常に苦しんでいます。なんとかならないものでしょうか?この苦しみから救われるように自分達にもできる修行を教えてください」
するとお釈迦さまは、「ではモクゲンジの実を108個通して環をつくり、これを常に体から離さずに、仏様の名前を念じなさい」
お釈迦様はこのように仰られました。そして王様は早速たくさんの数珠を作り、自分も仏様に一生懸命お祈りしてその国は平和になりました。というお話です。
数珠には108個の珠があります。そしてどの宗派でも108個を環の形にしてものが正式とされていますが、宗派によって形も数珠を用いる意図も異なります。
何故108個かと言いますと・・、基本的な意味あいとしては、数珠とは念珠ともいいまして、元々呪文によって108の煩悩を退治するために、唱える呪文の数を勘定する目的で作られました。珠の中をつらぬいている糸は丁度仏様の心を我々の心の中に通しているのであって、それを円く輪にしてあるのは、心が円く、素直になることを意味しているのです。
日蓮宗の数珠は大別して装束数珠と菊房数珠との二種類があります。装束数珠は僧侶が儀式で用い、菊房数珠は僧侶、檀信徒共に用います。この数珠の珠には大きい珠と小さい珠があり、大きい珠を親玉、母珠といい、お釈迦さまを意味しています。その他の108の珠を諸仏や菩薩に例え、緒留の珠で結び合わせて、仏の世界を表しています。したがって、数珠を持つというのは自分が仏の世界にいることを意味しているのです。
他の宗派、例えば浄土真宗さんも僧侶が儀式で使用する数珠と檀信徒が用いる数珠とは違いがあるようで男性用、女性用と房に違いがあるようです。
このように数珠は宗派によって様々な意味があり、仏事には欠かせないものなのです。ただ単に、仏事のアクセサリーというわけではありません。
以前こんなことがありました。
ある若い女性の方が、「私は母親から数珠をもらいました。この数珠は亡くなった祖母がお詣りをする時に家族の健康を祈って使っていたもので、それを20歳になった時、母が祖母から受け継いで大事に御守りとして肌身離さず持っていました。今度は20歳になった私が受け継いで御守りとして大切にいつも鞄の中にいれて持ち歩いています」と、受け継がれてきた数珠を見せていただきました。
数珠には、仏教上の大切な意味とともに、誰かを大切に想う気持ちも込められているのです。数珠が受け継がれていくことによってその想いが次の世代へと受け継がれていくんです。
最近では法事の際にも数珠を手にしない人も少なくないように見受けられるようになってきました。どうですか?せっかく縁があって仏教徒になったのです。御自分の数珠を持ち、御仏壇の前で祈りましょう!そして、それに想いをこめて次の世代へと託しませんか?
参考文献 「仏教 早わかり百科」 著 ひろ さちや
「日蓮宗のしきたりと心得」 全国日蓮宗青年会 監修
(一月八日 正月大祈祷会 水行式)
今年は厄年に当たり、お祓いを受ける方もいらっしゃると思います。今回は厄年についてちょっとお話します。
まず、厄年は数え年で計算します。この数え年というのは、生まれた時を一歳として、元日が来るたびに一歳プラスするという数え方です。ですから、元日から誕生日前日までの数え年の計算は 満年齢プラス二 誕生日から十二月三十一日までの数え年の計算は 満年齢プラス一 をすることになります。これは仏教などの母親のお腹の中にいる時も人間は生きているという考え方により十月十日も年齢に加算されたものです。
厄年とはもともと平安時代の陰陽道の考えに基づいて広まったもので、災難や不幸に出会う事が多いとされる男女の年齢を指します。厄年は一般的には数え年で男子が二十五歳、四十二歳、六十一歳、女子が十九歳、三十三歳、三十七歳、(六十一歳)とされています。特に男の四十二歳は「死に」、女の三十三歳は「散々」に通じるということで、一生の中でも大厄とされ、厄年の前年の前厄、厄年の後半のはね厄と合わせて前後三年間続くとされます。
日蓮聖人は、日眼女という信徒にあてた手紙の中で、「そもそも厄というのは、たとえば人のつぎふし(関節)のようなものである。風は正面から吹けば弱く感じ、角から吹けば強く感じる。病も同じで肉より起これば治しやすいし、間接の部分から起これば治しがたい。(略)ふし(関節)の病をよく治せば寿命は長くなります」と説かれています。
確かに、厄年の頃の年齢というのは人生のつぎふし(関節)、特に大事な節目の時期と言えるでしょう。一般的に男女ともこの年齢になると、体調の面でも、精神的な面でも、または社会的役割の点でも大きな変化が出やすいようです。
さらに、厄年について日蓮聖人は、厄の年、災難を払ってくれる秘法こそ法華経である。たのもしいことである、たのもしいことである。なぜならば、法華経を持つ者はお釈迦様の子どもであるので仏をはじめ諸天善神も皆守ってくれること間違いない「当年の大厄をば日蓮に任せ給へ」とも仰られています。(太田左衛門尉御返事)
人は生きてく中で様々な縁によって生かされています。この縁が良いものなら問題ありません、しかし、悪いものがたまに入ってくる、厄年というのは、人生のつぎふしの時期、この大切な時期に悪い縁が入ってきたなら、大変なことになります。なので、この悪い縁を未然に防ぎ、そしてもし入って来ても大難は小難に、小難は無難にと法華経の功徳をもってお祓いするのが厄年の厄払いと言われるものなのです。
義専
参考文献 「常に悲観を懐いて」 著 星 光喩











