旧暦ではもう季節は冬であり、この時期になると霜が降りますもので「霜月」と呼ばれました。
今年は夏が大層暑く、寒暖の差が大変激しいものですから身体の調子を崩される方も大変多くいらっしゃいます。何事も身体が基本でございますで、どうぞよろしくご自愛いただきたいと思います。
私も毎日お経を読んだり、お話をさせていただいたり何かと声を使うもので、風邪をひいてしまうとすぐ喉に症状がでて、声が出にくくなるものですからなるべく体調管理をしっかりしなくてはいけないなと心がけています。
お話をするにあたっても、先生や諸先輩方からお話の基本であります、「かた」が大事と言われました。まず「かた」というものを勉強しなさい、そのかたに血が通う事によって「かたち」になるのだよと、お話の組み立て方や喋り方や振る舞い方から習います。1声 2節 3姿であると何度も何度も指導を受けました。
今の時代・・・。ちょっと古臭くも感じられるかもしれませんが、昔から、結婚する時は「花嫁修業」と申しまして、お嫁に行く時はあちらの家に失礼のないように、何事も基礎が大切と親が我が子に躾だとか、礼儀作法などのような基本的なことを教え込みました。
江戸の小話にこんなお話しがございます。
今まで自由奔放に育ってきた一人娘に急に縁談が持ち上がった。お嫁に参りますので、お母さんが娘に言いました。
「お前は言葉づかいが悪いから、気をつけるんだよ。言葉の前には『お』の字をつけて、丁寧に言うんだよ!」
「『お』の字をつけて言えばいいんだな。わかった!」
それから無事に結婚式が終わり、娘はお嫁さんになりました。
次の日、娘はお姑さんに言いました。
「お台所の、おすりこぎ棒が、お風に吹かれて、おころん、おころんと、おなっております」
それを聞いたお姑さんが、娘に注意しました。
「丁寧なのはいいが、そんなに何にでも『お』をつけるもんじゃないよ」
しばらくして娘が里帰りをした時、その時の話しをするとお母さんは言いました。
「それは、お姑さんの言う通り。あんまり『お』ばかりつけるのも、おかしいよ」
「『お』をつけると、おかしいんだな。わかった」
娘が里から帰ると、お姑さんが聞きました。
「里では皆さんおかわりなかったですか?」
娘はお母さんから、あまり『お』をつけるなと言われたのを思い出して答えました。
「はい、やじも、ふくろも、元気でございました」
これには、お姑さんもあきれてしまいました。
そしてこんな娘では困ると、とうとう里に帰されてしまったそうです。
物事には基礎が大切。基礎というものはきちんと最初から身につけておかないとおかしなことになるもんです。実は、仏教も基礎というものが大切なんです。
日蓮宗のお経、二十八章あります中で、一番重要とされている第十六章、如来寿量品第十六の冒頭の部分に、こんな言葉が出てきます。
「諸々の善男子、汝等当に如来の誠諦の言葉を信解すべし」
お釈迦さまが弟子達に「まず疑いの心を捨てて私真実の言葉を語るのを信じなさいよ」とこれが、三度に渡って繰り返されます。この寿量品では、お釈迦様が過去、現在、未来に渡って私達の傍にいてくださり、常に私たちを何とか救おうと働きかけてくださっている、永遠の存在であることがお釈迦様の口から明らかにされます。
言葉というものは完全なものではありません。想いを言葉で表現するには限界があり、不十分です。しかし、私たちは完全な以心伝心はできませんので、言葉がなくては表現できません。だからこそ、聞くこちら側の「信じる」というものが基本であり、この「信じる」が実は仏教で言いますところの一番大切な基礎になってくるのです。
日蓮大聖人もお手紙の中で、「信なくしてこの経を行ぜんは手なくして宝の山に入り、足なくして千里の道を企てんがごとし」と説かれています。「信」があるからこそ、宝の様な尊い教えを感じることができるんです。
何事も基礎をおろそかにすると、大切なものをつかむことはできないんですね。