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日々寒くなってまいりました。この季節になると、
山々も私たちに様々な顔を見せてくれます。

保育園に勤めていた頃の話です。この季節は公園に行くと、どんぐりの実や松ぼっくり、様々な色をした落ち葉集めに子ども達は夢中になります。それを持参したビニール袋に収集していく子ども達、よく、お母さん方が「保育園で着た洋服を洗濯したらポケットに入っていたんでしょうね、洗濯機の中がどんぐりだらけになりました~(笑)」と仰っていました。

そんなある日、私のクラスの三歳のSちゃんという女の子が滑り台の下で集めてきたドングリの実で遊んでいました。すると、「先生ちょっと来てください」と保育士の先生の声、よく見ると、その女の子を抱き抱えて一生懸命、鼻の穴をのぞいています。

「どうしたんですか?」「ドングリの実を鼻の穴に入れてしまったみたいなんです・・・」

これは一大事です。良く見ると小さいどんぐり一つ、綺麗に小さいの鼻の穴にジャストフィットしており、しかも、御丁寧にドングリの実の頭から鼻の穴に入れてしまったようで、丸くなっているドングリのお尻はツルツルすべってなかなか取り出すことができません。

あわてて片方の鼻の穴を抑え、「Sちゃん、ふんしてごらん。ふん!!」

sちゃんも頑張って「ふん、ふん」としますが、全くビクともしません・・・。

不思議ですね・・・。本当、何故、子どもはわざわざ、狭い鼻の穴に入れようと思うのでしょか・・・。悪戦苦闘しながらピンセットでようやく取り出し、鼻の穴を覗いてみると・・・・。なんと、今度はどんぐりの実の傘が外れて鼻の奥に残っているではありませんか・・・。

何故・・・よりによって、傘つきのどんぐりを・・・。

大人たちの慌てぶりに気付き泣きだすSちゃん・・・。「これはもう、病院にいきましょう」ということになり、御両親に電話します。

いつもお世話になっている近くの小児科の先生に耳鼻科を紹介してもらい、急いで耳鼻科に向かいます。園の外に一人だけ出られるというのが嬉しいのかこちらの心配はよそに、Sちゃんはなぜかご機嫌です。そして耳鼻科に到着、さっそく治療の椅子に抱っこして座り、「はい、じゃあ見せてね~」と先生が鼻の穴を見た途端、事の重大さに気付いたようです。

「お医者さん嫌だ~。いやだ~」泣き叫ぶSちゃん・・・。なんとかかんとか、看護婦さんに、抑えられながらようやく吸引機みたいなものが鼻の穴へ・・・・。「スポッ」という音と共に、出たドングリの傘・・・・。鼻の穴を消毒してもらい、ようやく治療も終わりました、病院から手をつなぎながら保育園まで帰る道、「Sちゃん、なんで鼻の穴にどんぐり入れちゃったの?」と聞くと「う~んとね、大事だったからだよ」と答えが返ってきました。

なるほど、大事だからかぁ・・・。

保育園につくとすっかりご機嫌になったSちゃんはまたドングリで遊びながら、何故か自分で作詞作曲した「ドングリを~鼻の穴に~♪入れたら~痛い~♪」と小唄を歌っていました。

子どもは自然を大切な友達の様に感じ、全身で遊ぶという気質というものを自然と持っています。公園等にいくと、そこに遊具がなくても自然に植物などで遊び始めるんですね。人間には幼いながらも、生きている動植物などを身近に感じ、大切にする心があるようです。

仏教では成仏するのが生命体に限定されているのではなく、この世のありとあらゆるものが仏になるのだよ、土も石ころも瓦礫も流れる川も水も風すらも人と同じく成仏の可能性を宿している。という「草木国土悉皆成仏」という教えがあります。

日蓮聖人も「観心本尊抄」というお手紙の中で

草木の上に色心・因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」

心を持たない草や木が色心、色というのは、人間や動物や虫が持つ生成し、変化する物質作用という意味であり、一方、心とは精神作用という意味です。そして、原因があり、結果があるという、因果(譬えるなら、木は太陽や雨の恵み、山の養分によって成長し、そして二酸化炭素を吸って酸素を作ったり、生った実により森の小動物達を生かし、山を土砂崩れなどから守るという理)の法則。この、色心と因果を持っていないのでなければ、木像・画像を本尊として仰ぎ奉ることは成り立たないのだよ。とおっしゃっています。

色心と因果をもつのは私達だけではないのです。私達と同じように自然にも一つ一つ色心と因果が備わっているのですね。そのことを子どもの時、自然と触れ合っている時は直に感じることができるでしょう、しかし、徐々に大人になり自然と離れていく現代生活において私達は「大事だから」というような心を忘れてしまっているのではないでしょうか。平気で山は切り倒される、川は埋め立てられる、海は汚れていく、ゴミは平気で自然の中に捨てられるのが今の現状です。

毎日テレビを見て、テレビのコメンテーターやニュースにつっこみを入れて会話するのではなく、そこに、私達と同じように生きている自然と無言の会話というものをしてみましょう。

きっと自然の声が聞こえてくるはずです。

義専