お檀家さんの所にて追善供養のお経をあげて、お話をしております・・・。
「私達は亡くなったら四十九日の冥途の旅を終えるとお釈迦さまやご先祖様のおられる霊山浄土というお浄土の世界へといくんですよ」とお話をしていますと、こんなことを聞かれました。
「あの~。うちは日蓮宗なんですけれど姉は浄土真宗の家に嫁ぎました。その時は極楽浄土に行くとお坊さんが仰っていたんですけれども、それぞれ行く世界が違っているならもう会えることはできないんですか?」
なるほど・・・ごもっともな疑問です・・・。浄土間の行き来があるかどうか?
浄土というのは簡単にいえば「仏様の国」です。仏様といえば一般的にお釈迦さまをイメージしますが、実はお釈迦様以外にもたくさんの仏様がいらっしゃいます。お釈迦さまが教えをとかれた時を現在と考え、過去世、現在世、未来世の三世にわたってたくさんの仏様がそれぞれの国を持っておられて、その仏様の国を浄土と言います。有名どころでいいますと例えば、霊山浄土、極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃国、観音菩薩の補陀落浄土などなどです。
法華経を信仰する人はお釈迦さまのおられる霊山浄土、浄土真宗や浄土宗、お念仏信仰をされ、阿弥陀佛を信仰していらっしゃる方は極楽浄土、真言宗の方は十三回の輪廻を繰り返して徐々に大日如来の元へと登っていくそうです、どの宗派も自分が拠り所とするそれぞれの仏様の元へと行き、そしてその浄土、痛みも苦しみもない安穏とした世界にてご先祖様や亡くなった故人の方々といずれは再会する、日蓮宗にかかわらずどの宗派もそのように説かれておりますが、それぞれの浄土の世界を行きかうことはできるのだろうか?ということには考えたことがありませんでした。
「今日はどこの浄土に行ってみようかな~たまにはおばさんのいる極楽浄土にでも遊びに・・・、いやいや久しぶりにおじいさんのいる霊山浄土にでも行ってみるか~」
なんてことが浄土では行われているのでしょうか・・・。霊山浄土は法華経が永遠に説かれる場所でありますから法華経の中に答えがあるはずです。法華経を読んでいきますと、たくさんの人や菩薩、龍や様々な一族がお釈迦様の教えを熱心に聞いている情景が描かれています。法華経の中、「見宝塔品第十一」という場面ではお釈迦様が一筋の光を放たれ、東の方角に数えきれないほどの国土とそこを治める様々な仏様を見られると、仏様方はそれぞれの治める国から一人の大菩薩を従えて皆集まった。と記されてあったり、「常不軽菩薩品第二十」では、阿弥陀仏の極楽浄土からきた阿弥陀仏の智慧第一の弟子と言われる得大勢菩薩(勢至菩薩)が出てきたり、「妙音菩薩品第二十四」の場面ではお釈迦さまの眉間から放たれた一筋の光が東方を照らし何千億という世界を越えて‘浄華宿王智如来’という仏の世界の「妙音」という菩薩に届き、妙音菩薩がお釈迦さまにお会いしたいと願い、導かれて霊鷲山にやってきたり、「普賢菩薩勧発品第二十八」では‘宝威徳上王仏’という仏の国の普賢菩薩が法華経を聴くために百千万億の菩薩とともにお釈迦様のもとにやってきたりと、浄土間での行き来というのは結構記されております。
時に、「人は死んだら無になるにきまっているじゃないか!あの世なんて見たことないんだからあるわけがない!」こういう事を仰られたり、お釈迦様の「毒矢の喩え」というお話を持ち出されて「お釈迦様はあの世の存在を否定されたんだ!」と言う方もいらっしゃいます。「毒矢の喩え」では「死後の世界はあるかないか?」というお弟子の質問に対し、お釈迦様は「わからないことをあれこれと考えても仕方がない、今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と答えられました。
あるか?ないか?などと結論がでない問題を論じるのではなく。信じる信じないの問題ではないかと思います。死後の世界については「考える必要がない」という方はそれで結構だと思いますが、誰かにあちらで幸せに暮らしてほしいと願ったり、また誰かに再会したい、と思ったり、死について恐ろしいと感じるならばしっかり信じる。信じ、信仰することによって必ず浄土の世界は現われるのです。
日蓮大聖人は「法華経を信仰する人は必ず霊山浄土に行く、そしてそこで、亡き愛しいと思う方と再会できる、それを励みにしっかり信心に勤めなさい」と仰られました。御自身もお弟子や信者の方々に「霊山浄土で会いましょう」と何度も仰られております。法華経の中「提婆達多品第十二」の中では、お釈迦さまの「未来世の中に若し善男子、善女人あって妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ずして十方の仏前に生まれん」という言葉が出てきます。法華経の中でもしっかりと法華経を信仰した者は仏様の前へと、いわば浄土の世界へといけることが述べられています。
浄土の世界を信じるということは、自分の命や家族の命、人の命と向き合うことです、遺された命をどう一生懸命に生きていくか、落ち着いて考えることができます。ただただ、余計な理屈はさておき信じる、お釈迦さまの言葉、大聖人の御言葉、受け継がれてきた先人たちの教えを信じ、しっかりと与えられた命を精一杯生きることが大切なのです。