1月は本当に沢山の方々にお寺に来ていただきました。
個別に厄払いをご依頼される機会が沢山ありまして・・。
何か毎日お祓いをしていたような気がします🤔
来寺いただきました皆様、ありがとうございました!
厄払いや新年を迎えての車の交通安全祈願等、常時受け付けております。
必要な方はお気軽にお問い合わせください😊
今日から2月。
2月と言えば「節分」と「立春」
立春は新しい年の始まり。
いよいよ「甲辰(きのえたつ)」年が始まります😀
その前日の「節分」の日は節目でもあります。
今でいうところの「大晦日」。
季節の変わり目、節目には邪気が生じやすい。
という考えから「豆まき」をして鬼を追い払うという行事が
行われてきました。
「鬼」のイメージは寅柄のパンツに角が生えて金棒持って・・。
ですが、その姿は鎌倉や室町時代からできたものなのです。
本来、「鬼」というのは、目には見えない恐怖や畏怖すべきものを指します。
そして、死者の霊魂や悪霊の事なのでもあります。
ですから、鬼というのは人間の負の面が作り出したものであるとも言えます。
私達の心の中には、嫉妬、憎しみ、妬み、のような煩悩、様々な負の面があります。
しかし、慈しみ合ったり、助け合ったり、許し合ったり。そんな仏の心もあります。
先日よんだ本の中に、清水寺の貫主様の言葉が出てきました。
悪事をすれば、心に悪が積もっていく。しかし心が悪に染まることはありません。
どんなに恨み、妬み、憎しみを心に重ねても、心がそれに染まりきることはありません。
生きていればどこかで人や生き物を助けたり、人を思いやる場面は必ず生まれます。
懺悔し、悔い改めていけば善人になります。
同じように、善行をすれば心に善が積もっていく。しかし、心が善に染まることはありません。
どんなに人を思いやれ、善行を積んだ人でも、心がそれに染まりきることはありません。
善行を積み重ねた人でも魔がさしたり、出来心で犯罪者となってしまったりすることもあります。
そして、生きてる限り、煩悩は必ず生まれます。
だから、心が善と悪。どちらかに染まりきることはあり得ないのです。
常に心は中性的。
私達が何に心を委ねるかで変わっていきます。
日蓮大聖人のお言葉に
「衆生といっても仏といってもそこに二つの隔ては無い。
迷っている時を衆生と名付け、悟った時を仏と名付けるのである。
曇って映さない鏡も磨けば玉のようになる。
私達の煩悩に囚われた迷っている心は磨いていない鏡のようであり、
これを磨いていけば真実の悟りの智慧の明鏡となる」
とあります。
まずは、良い面も悪い面も持つ自分の心と向き合う事。
あ、無理して変える必要な無いと思いますよ。
染まりきることはないのですから。
変えていこう、磨いていこうとする一日一日が大切だと思います。
少しづつ、心を磨いていく事。
人が喜ぶこと、ためになることを重ねていく事。
これが大切なのではないかなと思います。
「節分」
皆さんの心の中には一体どんな鬼がいるのか?
ご自身の心と向き合ってみる機会にされても良いかもしれませんね😀