もう、気がつくとGWも終了し、いよいよムシムシする梅雨の時期に突入します。こないだ、雨上がりに道を散歩しますと、道を這っているいる小さな物体、なんだろうと、子どもが不思議そうに、近寄ってみますと、「あ~かたつむりだ!!」と嬉しそうに声をあげました。

 背中に重そうな荷物を持ちながら道をゆっくり這っているかたつむりを二人で眺めていますと、

「ごんぎつね」や「てぶくろをかいに」の作者、新見南吉さんのお話、「でんでんむしのかなしみ」というお話を思い出しました。

あるところに、一匹の でんでんむしが ありました。ある日、そのでんでんむしは、大変な事に気がつきました。

 「私は今迄うっかりしていたけれど、私の背中の殻の中には、悲しみがいっぱいつまっているではないか、この悲しみはいったいどうしたらよいでしょう・・・。」

でんでんむしは、お友達のでんでんむしの所にやっていきました。

 「私は、もう生きてはいられません」

と、その でんでんむしは、お友達に言いました。

「何ですか?」

と、お友達のでんでんむしは聞きました。

「私は何という不幸せなものでしょう。私の背中の殻の中には悲しみがいっぱいつまっているのです。」

と、始めのでんでんむしが話しました。すると、お友達のでんでんむしは言いました。

「あなたばかりではありません、私の背中にも、悲しみはいっぱいです。」

それじゃ、しかたないと思って、初めのでんでんむしは、別のお友達の所に行きました」

すると、そのお友達は言いました。

「あなたばかりじゃ ありません。私の背中にも悲しみはいっぱいです」

そこで、始めのでんでんむしは、また別の、お友達の所へ行きました。

こうして、お友達を順々に訪ねて行きましたが、どの友達も、同じことを言うのでありました。とうとう、始めのでんでんむしは、気がつきました。

「悲しみは、誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は、私の悲しみを、こらえていかなきゃならない。」

そして、このでんでんむしは、もう、嘆くのをやめたのであります。

 

悲しみと言いますものは苦しみから生まれ出るものです。仏教では「生きる、老いる、病になる、死んでしまう」のそれぞれ、四つの苦しみに愛別離苦(あいべつりく)といいます、愛する者と別れてしまう苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)といいます、 怨み憎んでいる者に会ってしまう苦しみ、求不得苦(ぐふとくく)といいます、求める物が得られない苦しみ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)といいます、あらゆる精神的な苦しみ、この四つを合わせて、四苦八苦と言います。

 

仏教はこれらの苦しみと向き合って悲しみを乗り越えていくための教えなのです。

 

如来寿量品第十六の中に「常に悲観を抱いて心遂に醒悟す」という一文が出てきます。

 悲しみを常に大事に取っておくことではなくて、悲しみに打ちのめされることによって、どうにもならない切羽に立って始めて、その悲しみの底から迷いの眼が開かれてくる。という意味です。

私達は何か苦しいことや悲しい事が起こると、「自分だけ何でこんな目にあわなければ」「なんで自分だけ・・・」と思いがちですが、そうではなく、実は、誰しもが同じような悩みや悲しみを抱えているんですね。だからこそ、その悲しみと真から向き合う事によって、受け入れることによって道は開かれてくるのです。

その悲しみは無駄なものではない、必ず自分の糧となるんだよ・・・仏さまはそうおっしゃっています。