ふと、この時期になると思い出すことがあります。

いつも、外の蛇口の傍なので、この場所で朝から水行をしているのですが

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この壁の向こうは土地の高さが低くなって、道路を挟んで地域の方々が止められる駐車場になっております。

実はこの駐車場の車の音、結構自宅へと響いてきます

もう5年くらい前のお話になりますが・・・

その駐車場に停められた車の中に、一台、毎朝6:15分になるときっかりとブンブンブンブンと鳴り出す車がありました

車の事は詳しくないのであまりよくわからないのですが、エンジンを温めるために2~3分くらいブンブンと鳴らしていらっしゃるらしく・・・

たまに見る、あからさまにエンジンの消音装置を外してある改造車です

休みの日になると車を改造しておられました。

お寺は7時から朝勤ですので、いつもは6:20くらいに起床し、

6:30くらいから水行をするのですが・・・

その音でどうしても目覚めてしまう。

まぁ~・・・かなりの騒音でした・・・

10分そこらしか違いはないのですが・・・

特に冬場は、それでも早く起こされると腹がたつものです

一度改造している時に「うるさいのですが」と言ってみたんですが・・・

「あ~すみません」と言われたっきりでした。

どうしたらよいか随分悩みました、どうしようか考えました。

とは言いましても、向こうは仕事に行かれているんですね・・・

毎日祝日以外は6:15分きっかりにでかけて

20時くらいにまたブンブンブンと帰ってこられる

遊びで運転しているのならともかくなぁ・・・随分悩みました。

そしてひらめきました

よし、プラスに考えてみよう。

この音を目覚ましにすればよいのだと

それからはいつも車の音で6:15分に起きるようになりました、そうするとちょっと気分も良くなり。

「おぉ・・・今日もモーニングコールありがとうね」

と思えるようになりました

しばらく車の音で起きては、外へ出て・・・

水行をする毎日

しかし、それでは満足できずに・・・

またひらめきました

朝早く水行してますと、まだ薄暗く歩いている人も誰もいません。

見てくれる人がいないのでそのお兄さんを観客にしてしまえ・・・

ということで、その5分前6:10分に起きて6:15のエンジンに合わせて水行をするようになりました

冬場のまだうす暗い早朝、水の「バシャーン」弾ける音ととともに

「ブンブンブンブン」というエンジンの音

案の定車のお兄さんはびっくりしている様子、

水をかぶりながら「おお、見てる」という視線を感じながら数日・・・・

水行が終わってふと駐車場を見るとそのお兄さんと目が合いまして・・・

そのお兄さんがこちらに向かって

「おはようございます、いつもご苦労さまです」と声をかけられたんですね。

こちらも「おはようございます、いつも朝早くから大変ですね」

と、二人の間に、何となく和やかな雰囲気が漂いました

それから数か月後引っ越していかれ、元の通りに静寂が訪れるようになりました。

なんかな・・・・なんだか・・・・さみしい限りでした

「十界」という言葉、聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。

十界とは、下から「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏」十種類の境地のことです。

順番に説明しますと、「地獄」は苦しみが最も激しい境地、「餓鬼」とは常に貪欲であって満たされない飢えと乾きに苦しむ、むさぼりの境地、

「畜生」とは、ものの道理がわからない、お互いにお互いを餌として殺し合う境地、「修羅」は常に争っている、争いの境地、

「人間」は我々人間の境地、「天上」は天の世界、神々の世界の境地、「声聞」と申しますのは、仏の声を聞いて悟る境地、

「縁覚」は一人で悟りを開く者の境地、「菩薩」は他の人を救いながら、仏の悟りを求めて実践し修行するものの境地、

「仏」は悟りの世界、仏さまの心の境地。

私達の中にはこの十の境地が存在していると言われております。

実際、私たちの心の中には仏や菩薩のような慈悲の心が生じることがありますね

逆にいかり(修羅)の心やむさぼり(餓鬼)の心や殺生(畜生)といった心が生じる時もあります。

そして苦しみのどん底(地獄)にだって沈む時もあります。

私が、あの時車の持ち主のお兄さんに懐いたのは修羅の心です。

「周囲に迷惑をかけるなんて、とんでもない奴だ」と思っていた相手も、こちらをみて気遣って声をかけてくださった。

あの時、お兄さんの心には「仏さまの心」が生じておられた、その瞬間に私の中にも「仏さまの心」が生じたのであります。

日蓮大聖人は人の心について『重須殿女房御返事』というお手紙の中にて

『地獄も仏もどこにあるかと言われるならば、私たち五尺の身体の内にこそ存在する。

それは例えるならば蓮華の種子の中に花と実とが宿っているようなものである。

私たち凡夫はあまりに近いまつげと、あまりに遠い宇宙は見ることができない。

そのように私たちは自身の心の中にいらっしゃる仏になかなか気づくことができないものであるんだよ』と仰っておられます。

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実は、地獄も仏もどこかにあるのではなくて我々の心の中にこそ、存在しているのですね。

「他人は自分を映す鏡」という言葉があります。

こちらが仏の顔を出すならば相手も仏になり、地獄の面、修羅の面を出すならば相手も自ずと地獄、修羅の面になる。

常に仏さまの心というのはなかなか難しい事です

しかし、地獄、餓鬼、畜生、修羅の場面の時にこそ同じ境地に陥るのではなく。

蓮の華が泥の中できれいな華を咲かすように、仏さまの心で照らしていきたいものですね