菊房数珠 装束数珠
先日、月回向に言った時、とある檀家さんが、
「つい先日買った数珠がもう切れてしまいました、何か悪いことが起こるのでしょうか?」と、心配気に仰っていました。
なるほど・・。
下駄のハナオが切れたら縁起が悪いという昔ながらの言い伝えのような感じなのでしょうか・・。 考えてみると私たち僧侶としては数珠というのは毎日当たり前の様に使用していますが、普段から数珠を毎日のように使っているという方はなかなかいらっしゃらないでしょう。
お通夜かお葬式、法事の時に使う程度でしょうか・・・今は葬祭場で数珠のレンタルもしていますし・・・。自分の数珠というのを持っていらっしゃる方も少ないのではないでしょうか?そんな貴重な存在の数珠が切れてしまったら。確かに、良い気分ではありませんよね・・・。
「いやいや、意外と数珠って切れたり、ほつれたりするものですよ!私なんか毎日使っているでしょう?案外そういうことってあるもので、その度に悪いことが起こっていたら、悪いことだらけになってしまいますよ!大丈夫です!それだけ熱心にお詣りをされているということですよ!仏具屋さんに持っていけば直していただけますよ。」
と、その場は笑い話に終わりましたが・・・。
さてさて、数珠の歴史というものは実は古く、3500年以上前から存在するそうです。数珠は古来より仏様と心を通い合わせる道具として広く使用されてきました。数珠にはこんな由来があります。
お釈迦様が霊鷲山という場所でお説教をされていたとき、ある国の王様がお釈迦さまを訪ねてきました。
「お釈迦様、自分の国は小さく、そして盗賊も多く、疫病も流行っています。そして人民は非常に苦しんでいます。なんとかならないものでしょうか?この苦しみから救われるように自分達にもできる修行を教えてください」
するとお釈迦さまは、「ではモクゲンジの実を108個通して環をつくり、これを常に体から離さずに、仏様の名前を念じなさい」
お釈迦様はこのように仰られました。そして王様は早速たくさんの数珠を作り、自分も仏様に一生懸命お祈りしてその国は平和になりました。というお話です。
数珠には108個の珠があります。そしてどの宗派でも108個を環の形にしてものが正式とされていますが、宗派によって形も数珠を用いる意図も異なります。
何故108個かと言いますと・・、基本的な意味あいとしては、数珠とは念珠ともいいまして、元々呪文によって108の煩悩を退治するために、唱える呪文の数を勘定する目的で作られました。珠の中をつらぬいている糸は丁度仏様の心を我々の心の中に通しているのであって、それを円く輪にしてあるのは、心が円く、素直になることを意味しているのです。
日蓮宗の数珠は大別して装束数珠と菊房数珠との二種類があります。装束数珠は僧侶が儀式で用い、菊房数珠は僧侶、檀信徒共に用います。この数珠の珠には大きい珠と小さい珠があり、大きい珠を親玉、母珠といい、お釈迦さまを意味しています。その他の108の珠を諸仏や菩薩に例え、緒留の珠で結び合わせて、仏の世界を表しています。したがって、数珠を持つというのは自分が仏の世界にいることを意味しているのです。
他の宗派、例えば浄土真宗さんも僧侶が儀式で使用する数珠と檀信徒が用いる数珠とは違いがあるようで男性用、女性用と房に違いがあるようです。
このように数珠は宗派によって様々な意味があり、仏事には欠かせないものなのです。ただ単に、仏事のアクセサリーというわけではありません。
以前こんなことがありました。
ある若い女性の方が、「私は母親から数珠をもらいました。この数珠は亡くなった祖母がお詣りをする時に家族の健康を祈って使っていたもので、それを20歳になった時、母が祖母から受け継いで大事に御守りとして肌身離さず持っていました。今度は20歳になった私が受け継いで御守りとして大切にいつも鞄の中にいれて持ち歩いています」と、受け継がれてきた数珠を見せていただきました。
数珠には、仏教上の大切な意味とともに、誰かを大切に想う気持ちも込められているのです。数珠が受け継がれていくことによってその想いが次の世代へと受け継がれていくんです。
最近では法事の際にも数珠を手にしない人も少なくないように見受けられるようになってきました。どうですか?せっかく縁があって仏教徒になったのです。御自分の数珠を持ち、御仏壇の前で祈りましょう!そして、それに想いをこめて次の世代へと託しませんか?
参考文献 「仏教 早わかり百科」 著 ひろ さちや
「日蓮宗のしきたりと心得」 全国日蓮宗青年会 監修