「散ったお花のたましいは、み仏さまの花園に、ひとつ残らず生まれるの
だって、お花は優しくて、お天道様が呼ぶときに、ぱっと開いて、微笑んで
蝶ちょにあまい蜜をやり、人にゃ匂いをみなくれて、風がおいでと呼ぶときに
やはり素直についてゆき 亡骸さえも、ままごとの、ご飯になってくれるから」
例年に比べて早く開花を迎え、一面に見事に咲き誇った桜の花も今ではすっかり散り落ちています。
この詩は、詩人 金子みすずさんの「花のたましい」という詩です。
はかないように散っていくように見える花も、何かしらの縁を受けてこの世に生まれていろんな所に恵みを与えている。散った後でさえも誰かに恵みを与え、縁を結んでいる。そんなお花だからこそ、仏さまのところでまた命を授かるのだよ。そんな詩です。
考えてみますと、人の人生もまた、似たようなものではないでしょうか?
生まれ、育ち、咲いて、そして散りゆく、一見はかなく、むなしく見えますが、実は仏教では肉体の滅びがすべての終焉であるとは考えられてはおりません。
私達の命は仏様の世界から「さぁ、頑張っていっておいで」と仏さまから遣わされ、父と母との因縁によってこの世界に生を受けます。
小さな蕾が芽吹くように生まれて育ち、太陽の恵みや大地から栄養をもらい親や色んな方々から恵みを受け、一人前に華を咲かしたら、今度は自分が虫や人間に恵みを与える番になる、そしてその役目が終わるころ、風においでとよばれた花弁のように自然にその人生を終えていきます。
しかし、この詩のように花の魂が仏さまの元で命を授かるように、私達の命もまた、仏さまの元へと帰っていくのです。
色んな縁を受けて生かされている命だからこそ、どんな人だって様々なところに縁を結びながら生きているのです。
ですから、私たちは精いっぱいこの命を生きていかねばなりません。
そんな尊い命ですから、「また、来年会いましょうね」、桜の花に話しかけるように、
「また、お会いましょうね。たくさんのことをまたお話しましょうね」
今生でのお別れの時、旅立つ方々をそうやって手をあわせながらお見送りしています。